脳
脳と言うと私たちはすぐ直ちに自動的に且つ条件反射的に「自分の脳」「わたしの
もの」とすぐにそう思い、その様に信じ込んでいる。
貴方の脳は貴方のもので、私の脳は私のものであるから異なっていると思って信
じ込んでいる。
・・・だがそうなのだろうか?、その世界の常識、人類の当たり前は本当に正しい
のであろうか?
それは、丁度、その昔、地球は丸いのに、地球は水平に拡がっていて宇宙には
地球しか人類が住んでいないと思っていたように・・・それは人類の共通の間違っ
ている常識・信仰であるといえるのではないか?
よくよく客観的に観察すれば脳は勿論私が創ったのでもなく、私のものでもない。
ということは自明の理であることだろう
脳は最高の大叡智がお造りになって生かし生きておられるのである。
事実は、この世界の常識とは全く逆に、脳が私・意識を生み出し、知覚や行為を
成立させ、呼吸や心臓を維持させ、生存をあらしめ私という自己意識を生かして
おられるのである。
それなのに肉体に入り脳と結合した「眠っているような状態にある意識」が、この
脳が生み出しているところの感覚や知覚や記憶や、身体機能や脳が持つ才能や
障害、そして同じく脳のプログラムが現している運命や出来事や肉体の行為を自
分自身が起こしているのだと誤って自己同一化してしまっているのではないのか
それは正しく、肉体は私のものではなくて、生命が肉体として生きておられるように
脳は私達が生み出したのでもなく、脳は私のものではない。大叡智のものだからだ。
細胞や神経一つとっても、そして脳の働き一つとっても、それは宇宙の動きと同じ
ような大叡智の動きが働いていることが分かることだろう。
その大生命大叡智が脳を生かし、肉体を生かしておられるにもかかわらず、この
肉体に入り脳と結合した「永遠のパーソナリティーと繋がっているのだがまだ意識
が目覚めていない私」が未熟なためにこの私が脳と繋がり「私がこの行為をして
いる、私が出来事を起こしている」「私がこの出来事を起こし行為しているのだ」「私
は記憶の反応だ」「私は脳の結果だ」「私はこの思考や欲望や感情だ」「私はこの私
だ」という錯覚をしているのではないか。
しかしながらこの素晴らしい肉体や、この脳の奇跡的な働きを観察すれば・・・
私やあなたのそれぞれの肉体や脳や記憶の私とは神の最高傑作である・・という
ことが判然とするのではないか。
肉体もそして脳も大生命大叡智がここに今こうして生きておられるのであって
条件付けられた脳によって受けとられた思考の記憶の私・・即ちこの「現在意識
の私」「起こっている行為の結果である私」が生きているのではないと言うこと
であろう。
そしてさらに
肉体に入って脳と結合した諸体が未熟で未だに目を覚ましていないために、
即ちその肉体に入った私が未形成のために、
肉体と脳に起こっている思考や感情や記憶や知覚や認識の私と自己同一視して
しまっていると言われております。
世界人類の教師は言われる
「見るものは見られるものである」「観察者は観察されるものである」と・・・。
才能のある肉体や脳もそしてその逆の障害のある肉体や脳も、善人も
悪人も、それは大生命がその様に生きておられ、呼吸され行為しておら
れるのではないだろうか。
脳のシナプスやニューロンの働きで生じている思考や感情、そして知覚や
認識そして「記憶であるこの意識的私」とは脳が生み出しておられる、実体
のない私、脳が受信している「思考の記憶」なのではあるまいか?
この自分が生きていて、私が行為しているのだと信じ込んでいる私とは「神聖
なる脳」が生み出している記憶の私、脳の結果なのではないだろうか?
この個別の肉体の私、脳の私、行為している私とは
実際には神が肉体として生きておられ、そして神が脳を使って「個人個人」
の私として生きておられ、行為しておられるのではないだろうか?
人類の世界教師は私達に
「思考者はいない思考が有るだけだ」
「行為者はいない行為が起こっているだけだ」
と教えておられる。
また「思考なく見なさい」「心なく見なさい」「私なく見なさい」とも言い続けておられる。
それはとりもなおさず思考や心という「思考や心である私」とは、肉体に入った「偉大
なる霊魂と繋がっているのだが未形成で未熟の私」ではないと言うことなのであろうか。
究極では「万物が私」であるところの私こそが本当の私なのであると教えられている。
「思考なく見なさい」と私達は言われ続けている。
「あるがままをあるがままに見なさい」と言われ続けている。
それ故に、だからこそ、その思考なく見ている私は今のところは顕現していないのだ
けれども、即ち私達とは「万物が私である私」と繋がってはいるのだけれども未熟な
ままで、眠ってしまっているが故に、肉体に入って脳に結合し、肉体や脳に起こって
いる思考や行為やそれらが生み出している自己意識と自己を同一化してしまい、自
分自身のことを「脳が生み出している私」だと思い違いしているのであろうか。
即ち
肉体に入り脳と結合した私達は《内奥においては観照者である永遠のパーソナリ
ティーと繋がっている》のに、目が覚めておらずその意識も顕現していないので
思考と同一化し、行為と同一化し、記憶である私と同一化してしまっている・・
ということであろうか?
しかしながら
私にはサイコノエティカル体が形成されておらず目が開いていないので、従って
肉眼しかないので肉体が眠ってしまうときには、目は閉じられてしまっている。
上記の話は肉体の目は閉じられていても、サイコノエティカル体の目が開いている
高次の方々の話なのである
私が上記の「行為は起こっている」ということを話したりするのは真理への
冒涜であり誤解である。肉眼のみで第三の目が開いていない私にはそのことを言う
資格がないのである。
私はこの事を単なる勉強した観念や記憶からの想像で話しているに過ぎないのだ
全く実体験がないのであるから即ち私は嘘をついているのである。
上記の述べたことを私は本当には理解しているのではないのである。
もし理解しているのなら、肉眼ではないサイコノエティカル体の目で見ている
筈だからだ。
従って上記の述べたことは未熟な私の単なる概念、創作に過ぎないのだ
もし本当に私がこの事を理解しているのならば
諸体が形成されており、肉眼ではない高次の目が働き、実際にその目で
世界と内部を見ていることだろう。その時その目で以て行為は起こっている
と理解し、その様に話すことが出来るのだろう。
ラマナ・マハリシ達の「行為は起こっている」という真理の言葉は
この目覚めていない私達には全く意味をなさない。
この目覚めていない私達が本を読んでそのようにそう思ったりすることは
真理の冒涜であり、危険なのである。
何故ならこのラマナ・マハリシの「行為は起こっている」という言葉は
再形成されたサイコノエティック体の目から発せられており
この再形成されたサイコノエティック体は肉眼ではない新たなる高次の
目で以て内部や外部を見ているので、その様にラマナ・マハリシは話す
わけである。
肉眼しか開いていない私達人類がそのラマナ・マハリシの言葉を聴いて
その第三の目で見ている世界のことは全く判らないのであるのに
そのことを誤解してしまい、必ずや間違って解釈してしまうのである。
肉眼という目で世界や内部を見ている以上は私達は私達が行為している
のである。目が開いていないので必ずそう実感しているからなのである。
それなのに行為していると実感している当のご本人が「自分は行為して
いない」と言ったり思ったりすること自体が全く間違っている誤解・誤謬で
あり、自分自身に対する詐欺行為なのである。
第三の目が開いて肉眼ではない目で見ることが出来る段階にまで
達している人のみが「行為は起こっている」と話すことが出来るのであって
第三の目が開いていない私達、即ちサイコノエティカル体の目が再形成され
ていない私達がその様に思ったり話したりすることは真理への冒涜で
あろう
それ故に再形成されたサイコノエティカル体の目が開いていない私達は
正しく見ることが出来ない限りは、現況の私には行為は自分がしていると
知覚し認識されいるので、その真実を見ることの出来る目が開くまでは
私達は一生懸命努力して、正しく行い正しく思うことが一番大切なのである。