濁った水=現在の私


本当の私も、私ではない私も、現在の私がその様に思っているのであって
本当の私も、私ではない私も、この未熟で未形成の私が思っている限り、
それは実は両者とも「濁った水である現在の私」の観念なのではないでし
ょうか?

確かに、いつかはその本当の私とは現在の私に顕現することでしょうけれ
ども、この現在の私に本当の私が顕現していない限りは、現在の私にはそ
の本当の私について話すことは出来ません。何故ならこの私は全く知らな
いからです。


この現在の私が思っているところの本当の私とは現在の私の思考の範囲内
の観念、すなわち未熟で未形成の「現在の私の観念」であることでしょう。

またこの現在の私が思っている「私ではない私」も、この現在の私の現在意
識とは、「私でない私」と一体化していて、混濁状態にある以上は、現在の私
の状態とは、まさにこの「私ではない私」であると思えます。


現在の私は、肉体を自分自身だと確信してしまっていますがこれは間違いで
あることでしょう、何故なら肉体とは大生命が創造し生きておられるからでは
ないでしょうか。


現在の私は、脳は私のもので、自分の脳だと確信していますが、脳は肉体と
同じように大生命のもので、大生命が使用しているのであり、脳とは大生命
が使用しているのと同時にこの現在意識の私もが使用しているものであります。
脳自体は私の脳ではありません。この現在意識の私がニューロンやシナプス
を創り思考や感情を生み出して動かしているわけではないからです。


現在の私は、五感や知覚や記憶や思考や感情を自分のものだと思っていますが
よく見れば分かるように、それら思考や感情は脳が受信して起こっているものと、
脳と結合している現在の私が発信している思考や感情という二つの別のものが
あるのだと思われます。


行為に関しても現在の私は行為の全てを自分が為していると思っていますが、自
律的な行為もあり、肉体に運命としてプログラムされて起こっている行為もあり、
そのプログラムされて起こっている行為に対しての反応として現在の私が為してい
る行為というものがあるように思えます。


人類の教師の教えによれば

私達、再形成されていない未形成で未発達の現在の私とは「濁った水のような状
態」であり、私という現在の自己意識とは、その濁った水であり、「汚染物・私」に
よって水は汚濁しているということであるようです。無知である私という観念によ
って現在の私は混濁してしまっているのでしょうか。


この現在の私は肉体に入り、脳と結合したその結果、起こっている出来事や、脳
に起こっている思考や感情や行為のことを、現在のこの私による自分の行為や
思考や感情だと錯覚してしまい、それに対して未熟なまま反応しているのではな
いかと思われます。


即ち、濁った水の状態である現在の私は、それらの起こっているその行為や思考や
感情や出来事と同一化してしまい、それらに対して反応を起こし思考し行為している
のではないかと思います。


そして、その起こっていることに対してのこの未熟で未形成の現在の私の反応が
エレメンタルというものを創りだしている・・のであると教えられております。


しかしながらこの起こっていることに対して同一化してしまい反応している現在の私
とは確かに未熟で未形成ではあっても内奥では「至高なる実在」の一部である「ハ
イヤーセルフ」「観照者・永遠のパーソナリティー」「未知なる私、【自他に分離した私
や思考や心から自由な私】」と繋がっているのだと教えられております。


けれども今のところはこの現在の私は未熟で未形成であり、「コップの中の汚染物」
であるところの自我に厚く覆われ、その自我と一体となり混濁しており、その自我の
私に対して間違った対応をしている様にも思われます。そしてその自我が現在意識
の私なのではないでしょうか。


通常、私達現在の私は、この自我に何かの機会に突然出逢うと非常に驚いてしまい
咄嗟に自我から逃げようとしますし、同時に、私である自我を非難し、この自我の言う
ことに静かに耳を傾け、話しをよく聞き、自我を観照しようとはけっして致しません。
何故、観照しようとしないのかは、現在の私は未だ眠った状態であって「意識は未だ
覚醒していない」からであると教えられております。



この現在の私が出逢っている自我、私を覆っている自我とは何でしょうか?


自我を非難し、自我から逃避しようとしている私こそが実は自我なのではないでしょうか?

なぜならこの現在の段階に於ける自己意識での私とはこの自我(エゴ)がそのものだから
なのではないか、と思われます

この自我である私は自分自身を分離して、対象化し「自分は自我ではないと思っている」
「自分とは自我を観察しているもの」だと思っているのであり、そのように思っている私と
は実は自我なのではないでしょうか?


自我であるこの私は、その自分自身である自我を対象として知覚して自分自身を非難して
いるのではないでしょうか?


この私とは実際にはコップの中の水に混ざって水を汚染している自我なのではないでしょうか

この自我である私の思うこと、そして感じる事、信じていること、行うことなどの知覚や認識も
全てはこのコップの中の汚染物である私であり、この自我である私が感じること、知覚して
いること、考えること、行うことは全てが自我が為しているわけでしょう。


「私は知っているのだ」「普通の人は全く分かっていない」「凡人は全く真理を求めていない」
などと他人を非難し、「自分は他人ではない」と自他の分離知覚をしてそのように認識してい
る私とは自我なのではないでしょうか?自我から逃げようとしている私が自我なのであると
思われます。


あるときに、現在の私に突然表面化したその自我の暴力性と支配欲、独占欲、競争心や
愛のなさに直面し自我から逃避しようと努力し、自我からの脱却を願ってワークしたり
している私のことなのですが、このそれをしている私こそが純粋なる水を汚濁している自我
即ちこの私であることでしょう。


何故ならば、今のところの現在の私のあるがままとは、ミルダッドの言うように自我が私の皮
膚のように現在の私とぴったりとくっついて一体化している状態であり、この自我である私とは
自分と他人を分離して見ている私であり、他人を批判している私、他人を搾取しようとしている
私、悲しみと恐怖と暴力に溢れ、高慢と自尊心、支配欲と独占欲、嫉妬心と競争心、神のよう
になろうと努力し、高次の知覚と高次の身体を得ようと努力し、プライドと、自己関心そのもの
である私。即ちこの知覚し、認識し、記憶し、行為する私こそが自我なのではないのかと考え
られるのです。