殺人者



悲しいことですが人類の歴史は戦争という敵と味方が唱える正義のため

と称する暴力や殺人の歴史でもありましたが、今回は焦点を絞って個人間

の自殺や他殺という殺人の行為ということについて少しだけ考えてみました。



まず初めにこの他殺や自殺という殺人という行為は眠ったまま肉体に入り

脳と繋がった現在のパーソナリティーには果たして可能なことなのであろうか?

・・・と思うのです。



呼吸や血液の循環、内臓や神経の働きを保持し営んでいる大生命や大叡智

は成長や老化、健康と病気、誕生と死亡を個体で行っておりますが、同じよう

に脳細胞を創造し維持し作動させ、思考を受信し、行為を起こし、そして同時に

行為者や思考者という「私という個人や人格という記憶体」を発生させている

のだと思います。(ですから行為の責任はこの現在のパーソナリティーが肉体

に入ったことで生じた思考や行為の記憶体である個人・人格はあることでしょう)



この肉体に結合した未形成の現在のパーソナリティーは起こっている思考や

感情や行為と同一化していて、眠ったような状態で肉体及び脳に繋がったので

この肉体と脳に起こっている行為と行為者を私自身が行為している行為者だ

と錯覚し、同じように脳に起こっている思考と思考の記憶である思考者を私が

思考している思考者だと錯覚してしまっていることでしょうか。それ故に



肉体に入って脳と結合した現在のパーソナリティーは

「私は自分や他人を殺してしまった」と実感し、そして苦しみ、もだえ、どうした

らよいのかなどと考えるのではありませんか?



肉体と結合した現在のパーソナリティー(未形成のサイコノエティック体)の私は

自分自身を肉体や脳と完全に同一化しているので、肉体に起こっている運命的に

プログラムされている行為を、「その行為及び行為が生み出している記憶体の人格」

や個人のことを私だと錯覚し、私が遣った(殺した)と信じ込んでしまっているように

も思われます。



現在のパーソナリティーが肉体と結合し肉体に起こっている行為が「行為者という私」、

記憶である記憶体の「私・人格」を生み出し、肉体に結合した現在のパーソナリテ

ィーはその人格の私や起こっている行為を自分が為していると錯覚しているわけで

はないでしょうか。



ということで・・この未形成の状態で肉体と結合した現在のパーソナリティーは

本当は、その起こっている殺人という行為に関わってはいないのではないか?

・・と思われる次第です。


未形成の現在のパーソナリティーはその出来事が起こった直後にその出来

事に直面して私が殺ってしまったと思ってしまうことでしょう。


それはある特定のそのようにプログラムされた肉体に入ったその未形成の現

在のパーソナリティーは余りにも未発達なので、その殺人という行為がプログ

ラムされている肉体に「類は友を呼ぶ」ように引き寄せられてしまったのではな

いでしょうか?


ですからこのことからして

未形成の現在のパーソナリティーにはその出来事が起こっている最中にはその

出来事には参加することは出来ないと思われるのです。


未形成の眠ったような状態の私達・現在のパーソナリティーは肉体に起こって

いる行為というそれらの出来事が進展しているまさにその時には、それを変え

たり、それらの出来事に加わることは出来ないのではないかと推測されます。



それ故に、もしその実際の起こっている出来事に参加して行為するためには、

現在のパーソナリティーが未形成の現在のパーソナリティーのサイコノエティック

体に対してのワークを行い、その未形成のサイコノエティック体という

その時空を超えた霊的身体を発達させ「目覚めさせ」再形成させなければならない

・・・と教えられております。


久保栄治には計り知れませんが、「真の行為」が行われるためには、本来既に

ここに在ると教えられている「私は在る」、「I AM THAT I AM」が誕生し顕

現している必要があることでしょうか。


今現在の久保栄治の状態、即ちこの「現在のパーソナリティーというサイコノエ

ティック体」は残念ながら再形成されておらず、潜在意識的意識状態であるため、

行為することも出来ず、起こっている出来事にも参加していない状態・・・即ちこの

段階での現在のパーソナリティーの私が創りだした「現在意識の私=人格、個人

の私=エレメンタルの私」の思考や行為を私自身だと錯覚している状態(段階)だ

と思われます。