バレエ花伝書




バレエとは何だろうか?
初代の日本バレエ協会の会長であり、私の仲人そして師でもあった服部智恵子先生
から教えられたバレエの奥義、そして長い間団員として25年間にわたり指導を受けた
牧阿佐美先生の教えから、その教えのエッセンスを紹介したい。70年近くバレエの
道を歩んできた私の結論でもあります。


バレエそれは全ての真正芸術と同じように厳しい「自己」表現の芸術なのであるとい
えます。

身体を使って「自己」を表現する芸術であり、それは又茶道や柔道や書道と同じく
道でもあり、それの奥義は世阿弥の説く「風姿花伝書」に示されている道でもあり
ます。

このバレエの奥義とは世阿弥が説くように自己の脱落を通じて真実の「自己」へと至
る道でもあることだと思います。

それは毎日のレッスンを通じて自己がバレエの基本に対して無となり透明となることで
バレエの至高の本質が顕わになることでしょう。
それは即ち「万物に証される自己」が顕わになる真の「自己」への回帰の道であること
だと思います。
そしてこれこそが真の教育であり、自己の栄誉と蓄財を目指した、そのための教育とは
全く以て教育ではなくて人間の退化への道程と言えましょう。


(ここで自己と言う言葉では本来の自己ではない自己のことを自己と表現し、その自
己に覆われている「本来の自己」のことを括弧付きで「自己」とさせて頂いているのでご
注意下さい。これを書いている私も「自己」ではなく「自己」を覆っている自己なのです)


バレエは毎日のレッスンを通じて臍下丹田の中心軸を把握することによって、身体か
ら発生するアラセゴンを中心として、身体の中にバーを持つことにより空間の角度と
二重のらせん構造の動きを伴う幾何学的数学的秩序を表現する芸術であると言え
ます。


それは音楽と一体となって、その音楽が肉体の枠を超えて拡がりゆく感覚であり、踊る
喜びに包まれていることでもあり、この段階ではよく見せたいとか、頑張ろうと言う自
我の邪魔が入っていない自己を忘れている高次の意識状態でもあります。

また臍下丹田の身体センターとハートに在る高次感情センター、そして眉間の奥にある
高次思考センターという「知情意」の統合による肉体を含む高次の身体との統合によ
る「自己表現」に他ならないことだと思います。大地と繋がり喜びが空間へと拡がるの
がバレエであると言えます。


ここで、まず芸術についてはハッキリしてしておかねばならないことがあるのでバレエと
は何かを述べる前に芸術には主観芸術と客観芸術という全く異なる芸術があることを知っ
て頂きたいです。


芸術には「自己」ではない「私は肉体であると錯覚している私・自己」のことを表現する主観芸術と
いう「なまの私を表現する芸術」と、そのなまの私・自我を判断や逃避や一体化をせずに凝視する
ことによって顕現してくる「自己」を表現する客観芸術があるといえます。

その客観芸術によって表現されるのは”「自己」とは万物である”という大前提に基づいたもので
あり、バレエとは「なまの自我の感情や感覚である私・自我」を表現する主観芸術ではなくて、毎日
の基本練習を通じて、自己を見つめる鏡を内側に持つことによって徐々に生まれてくる「私」、身心
の脱落を通じて徐々に生まれてくる「万物が私である自己」という「私」を表現する客観芸術であ
ることを最初に申しあげたいです。自己脱落、自己超越が「自己」を顕現する道なのだと言うことです。


芸術とはその本来の「自己」を表現する道であり、「自己」の事を全く取り違えて「私は肉体である」
との錯誤に基づく肉体の獣性の能力に特化してのその動物性の優劣を戦い競い合うということでは
ありません。

バレエが目指すのはその獣性の能力を競い争い合うのではなくて、日々のたゆまない基礎の修
練を通じての、自己を透明にしていくという、まさにその真逆の道であるということです。

それは真の「自己」である「万物と分離していない私」へと回帰する道であり、その為の日々の
レッスンという具体的な方法であり修練であると言うことであります。


従って、バレエにおける主役ダンサーとは、その自己を映し出す鏡を内側に持った”未知なる本当の
「自己」を表現しようとしているダンサー”であり、配役が主役であったり、目立つ役を踊るダンサーの
事ではありません。それはなまの私の情緒や、なまの自己を表現するダンサーのことではないのです。
その真のプリンシパルダンサーとは日々のたゆまない長い修練の結果として、自己を基礎に対して明
け渡し、自己を透明化し、真の「自己」の三つの高次センターが花開き、自己自我という間違った私、
その錯覚をしている私が脱落し、空間の幾何学的進展と一体となり、限りなく拡がりつつ在る私、「私
・自我を忘れ果てた私」が確立しているダンサーであると言うことがいえることでしょう。

自我という自己を表現するのがバレエではなくて、万物と一体になった「自己」を表現出来るのが真のプ
リンシパルダンサーなのでありましょう。

その昔、ロシアの至宝であったガリーナウラノワがいみじくも語っているように「踊るのでもなく、演じるの
でもなく、私は舞台で存在しているのです」という境地こそ、ウラノワが到達した真のプリンシパルダンサ
ーの境地であるという事です。


稽古場に於いては鏡があるように、真のダンサーは自己の内に鏡を持ち、その鏡を通じてあるがままの
私を観察することによって「自己関心に満ちた私を名乗って入る自己自我」を滅却し、そして自己脱落し
万物と一体となっている「自己を忘却し滅却した私」が顕現しているのが真のダンサーであるという事で
あります。


その昔、私の師匠であり、恩人である服部智恵子先生から「久保君!あなたの踊りはなまの自己表現だから
それはバレエではないわ!自己が透明になっていないわ!あなたはバレエの基礎に対して一体化していな
いのよ!あなたが純粋に透明になり、消滅していない限り本当のダンサーにはなれないわよ!」とよく叱られ
たものでした。「あなたの目は自己関心に捕らわれて外を向いてしまい、内側を観ていないわよ」と言われた
ものです。


本当のバレエとは
この自我の私、「私を覆い尽くしている私」の感情や欲望を私と取り違えての自己表現ではありません。
このような自己表現とはバレエの表現ではありません。
それらは自己ではないものを表現している偽物の芸術であり、自己自我のなまのままの感情を吐露したり
人間を覆っている獣性の能力に対して高い評価したりすることではありません。バレエはその様な主観芸術
ではなくて人間の本当の進化と共にある客観芸術なのです。
あるがままの私を同一化や逃避や判断なしに見ることが出来る鏡を内側にしっかりと保つことによって顕現
してくる内なる高次の「私」と繋がることが、道であり教育であり芸術なのでありましょう。


バレエとは
真の芸術であり、客観芸術であり、鏡を内側に持つことによって、あるがままの自己を凝視することを通じ
自己の透明化、純粋化の道を通じて、「万物である私」を表現する芸術、三つの高次センターを表現する
客観的芸術のひとつなのです。