無視されたとき
この私達である日常の意識的な私とは「あなたの私を覆っている私」だといわれている。
この自己意識とは「あなたの私」ではないのだというのだ。
だから、このいまこれを書いている私も、読んでいるあなたも、「あなたの私」なのではなくて
「あなたの私を覆っている私」であると言うことだろう。
ではこの「あなたの私を覆っている私」とは何であり、その特徴とはなんだろうか?
その「あなたの私を覆っている私」とは「私は肉体であり、他と分離しているのだ」と肉体の感覚と
同一化している「心」であり、その心の私であり、脳で知覚されている思考であり、その思考の
記憶である私であることだろう。
それは「エゴイズム」「利己性」「暴力性」「自尊心」「嫉妬心」「支配欲」「恐怖心」なのではないか?
こちらが道を譲ってあげたのに無視された。
親切に介護してあげたのにお礼も言われなかった。
挨拶をしたのに挨拶されず無視された。
自分だけ名前を呼ばれず、仲間はずれをされ、嫌がらせをされた。
煽り運転をされ、ついカッとなり怒りが押し寄せてしまった。
魅力的な女(又は男)についつい目が引き寄せられてしまった。
このようなことは日常生活でよくあることだが
このようなときに
私達の中にはいつの間にか本性である「怒り」「エゴ」「欲望」「愛の欠如」が顔を出し
私達は自分の中にあるその様な恐ろしい「暴力性」「自尊心」「嫉妬心」「支配欲」「利己性」
「欲望」「本性」に改めて気が付き、何としようとし始めることだろうか。
それらの「エゴ」「自我」に対しての、それぞれの私が異なった反応を起こすのではないか?
あらわれた「エゴ」に対して、非難したり同一化したりしないで、言葉を使用せず暖かく見守ることは
可能であるのか?
それらの私やあなたの「エゴ」「自我」を非難しているのは誰だろうか?
自分の内部に「エゴ」「自我」を発見し、その「エゴ」「自我」から自由になりたいと藻掻いているのは
その同じ「エゴ」「自我」であることだろう。
それらの「エゴ」「自我」を非難することで、私はその自我ではないと思っている私こそ「あなたの私を
覆っている私」「エゴ」「自我」であることだろう。
それを見ている「あなたの私」が未熟で未形成であるので、見られている「エゴ」「自我」と一体化し
てしまっているのではないか?
それらのある機会に突然起こり発見される自分自身の内側にある「暴力性」「自尊心」「嫉妬心」
「支配欲」に対して私達未熟で未形成の「あなたの私」もそして「あなたの私を覆っている私」
も当然、両者は共に同時に反応を起こしているのであろう。
この私達という表面の自己意識である「あなたの私を覆っている私」が幼稚な場合は、
車などで煽り運転をされた場合には、カッとなってこちらも相手に仕返すことだろうし
怒鳴られたら怒鳴り返えすことだろうし、、嫌がらせをされたら嫌がらせをすることだろうし
無視されたら無視するだろうし、欺されたら欺すだろうし、殺されたら殺すことだろう。
こちらが挨拶をしたのに挨拶をされなかったので、こちらは同じ態度で今度は相手を無視する
・・ということだろう。それが「あなたの私を覆っている私」の条件付けられた反応であることだろう。
この条件付けられている私こそ「あなたの私を覆っている私」であり、死後も生き残る人格個人では
なかろうか。そしてカッとなっているのに「自分はそう言う短絡の人間ではない」と必死に怒りを
押さえ仮面をつけているが、内側では暴力と殺意が溢れかえっている。
一寸だけ進化し、この私達という「あなたの私を覆っている私」人格が少しだけましな場合には
自分が暴力を振るわないように自己改善の努力をしたり、恐怖から解放されるように祈ったり、
愛深くなろうと修行したりすることだろう。
が、しかしこの自我自身が行うあらゆる事も、行っているのが自我自身であるから「暴力性」「自
尊心」「嫉妬心」「支配欲」からの解放はなく、それらは決して去ることはないだろうし、自分・自我から解
放されることもはないことだろう。それは死後も生き残る「あなたの私を覆っている私」であり人格や
個人と言われている私・自我であるからだろう。その私は「思考なく見なさい」と言われている「思考なく
見ること」の可能性のある「あなたの私」ではない。その「あなたの私」を覆い包んでいる私なのであろう。
”自分が何をしてもこのこの私達の行為とは「あなたの私を覆っている私」がしている事である”
ということを認識し、行為を見つめ、思考を静観し、ただただ、この自分自身が自分自身を注視し
ただ沈黙をすると言うことが重要なのではないか。
この自分という「あなたの私」を覆っているこの自己意識である「あなたの私を覆っている私」
がある限りは、自己改善の努力もこの「あなたの私を覆っている私」から出てきていること
であり、決してこの私達である「あなたの私を覆っている私」からの自由や脱出はあり得ない
というのである。
そして、この私達という「あなたの私を覆っている私」は自己延命のために「この暴力性は私のもの
ではなくて、私を覆っている自我のものだ」、「この恐怖心や競争心は私ではないエゴの反応だ」
だから自我と私とは異なるのだと思うことによって、このエゴ即ち自分自身は自分自身を分離させ
てエゴである自分は更に生き延びる事だろう。
即ちこの「あなたの私を覆っている私」は生き延びてしまう・・ということなのか。
人類の教師達は人類に対して次のように呼びかけておられるのではないだろうか?
「何を為すべきか、どうあるべきか、何が真実かを考えているのは思考なのです。神のようになろう
とし、神に近づこうとしているのは思考なのです。
その思考に気が付き、思考を追い払おうとしているのは思考なのです」
「自分は決して未知なるものへ至ったり、未知なるものを理解したりすることは出来ないという
事実に気が付いていなさい」
「心は未知なるものを知ることに於いて絶対的に無力である。未知なるものには一歩も
近づくことは出来ない。」
「受動的な気づきを獲得したい・・というその欲望に私達は気が付いている事が出来るだけなのです」
「真実の体験がない限りは、私達の本質的な問題の解消はないことでしょう。その真実の体験が
起こるまでは悲しみと葛藤は続いていくことでしょう」
「あなたがあなた自身の注意散漫に気づいて、まさにその事実に注意深いなら、あなたは気づいて
います。そこに注意散漫はありません。」
以上、非常に難解な教えですが、私たちという自我であるマインドは知性・理性・思考を駆使し、自らを浄化し
この言葉を理解しようとする事が、やがてそれらの知性・理性は信念へと成長し、信念は想像力へと進化し
そして想像力が大空へと羽ばたいて自己からの自由が起こるのだと言われているのではないでしょうか?