義母の臨終の際に起こったこと



今年の8月1日に99才であの世に旅立った義母の臨終に際して起こった事柄について
紹介したいと思います。

危篤状態を迎え死亡する数時間前のことでしたが、もう最後だというので妻は呼ばれ病室
でベッドの隣に詰めておりましたが、義母は既にこちら側からの問いかけに対して反応する
こともなくなり、目を開けることもなく、静かにただ息だけが聞こえているという状態でした。


このときでした、妻が母の方を見ると、驚いたことに、いきなり目を開けて、じっと天井の方を
見ており、しかもあちらこちらへと視線を移していて、さらには顔にはうっすらと笑みを浮か
べて、明らかに出迎えに来ている多くの方々に親しそうに接しており、安堵の表情があったそ
うです。けれどもこちら側の世界に対しての反応は既になく、半分はあの世に入っている
状態だったようです。


妻は「母はあの世の親しい人々や、迎えに来て下さっている方々と親しく接しているようだった」と
すぐに分かり、これで母も安心してあの世にいけるのだとホットしたそうです。

・・とここまではどこにでも極々ありそうな話しなのですが、私なりにこの現象を考えてみました。


この現象に関しては「自分の思考以外は一切を否定する方々」には大変申し訳ないのですが
私はこの妻の母の臨終に際して起こった現象を、一般科学や思考だけを絶対の判断基準に
している方々が述べるであろう「それは、脳内のホルモンの分泌による現象です」・・ではなくて
それとは全く異なる地球上では未だ常識となっていない総合科学的な見解を持っているのです。



神聖なる肉体の死に際して起こるところの肉体からの離脱に関して起こっているプロセス・・
・・・・即ち「あなたの私」が身に纏っているもう一つの体が肉体から分離していく際に起こるプロ
セスということ・・・ということを見て取ることが出来るのだと思うのです。ここは非常に複雑なので、
一体何で久保はそんなにこのよくありそうな現象を複雑な事柄にしてしまうのかと訝る方々も多
いのではと思いますが、じつは私達の肉体とは肉体だけが生きているのではなくて大生命を中心
として肉体+エネルギー体+人格思考感情体+形成途中の自己+原因体+霊魂の複合体とし
て生かされているのだと思われます。肉体は肉体だけで生きているのではなくて諸体が密接に絡み
合い接合し複合し生きられている神聖なるできごとなのだと思うのです。



ですから臨終とはそれらの複合する諸体が肉体から離れるという神聖なる事柄なのでありましょう


この臨終の際に肉体から離れる「あなたの私」が身に纏っているもう一つの体は人格とか個人とか
思考感情体と言われており、この「身に纏っている身体の私自身」とはわたしたちには強く「私は自
分自身だ」と自覚されております。
この通常の日常生活での私とは・・敵や味方があり、軽蔑したり、軽蔑されたり、欺したり、欺された
り、失敗したり、成功したり、怒ったり、愛したり、結婚したり、離婚したり、悲しんだり、心配し
たり、安心したり、猜疑心に苛まれ、欲望に翻弄され、嫉妬心に襲われ、支配欲に支配され、
喜んだり、苦しんだり、悩んだりしている私、即ちよくご存じの現在の意識の私のことですが、この
死後も生き残る人格や個人と言われているこの思考感情体の私が、「あなたの私」と一緒に肉体
から去るときには、この個人や人格の奥で今までは決して意識されなかった「あなたの私」や「あ
なた」が突如として意識される事が起こることがあり、義母の場合このように多くの方々の暖かい
出迎えなどが知覚されると言うことでありましょう。肉体から去ることは神聖なる出来事なのです。


とはいえこの臨終の時点では未だ完全には義母の「あなたの私」や人格の私が完全に肉体からは
離脱していないので、肉体との繋がりが細々と続いている中で、「あなたの私」が身に纏っている人
格の私(思考感情体)の視覚が働き始めて、死後の世界との接触がその目によって知覚され始
めていると言うことでありましょう。この場合は肉体の死後身に纏う思考感情体の霊的神経が肉体
の眼球や視神経を動かしているという二重の状態が現出している・・と言うことなのでありましょう。



ここで区別したいのはヘレンケラーのように肉眼の視覚が働かない状態での霊眼による視覚と、こ
のような死後身に纏う身体の視覚とは内容が異なっていて、私達常識人には肉眼によるこの視覚しか
その視覚のことを想像できないので、ヘレンケラーが見ていた霊眼と、死後身に纏う身体の視覚の違
いは判別出来ないのでありそれは天と地の違いがあることでしょう。ヘレンケラーの目とは、それは「あ
なたの私」の目であり、「あなたの私」が再形成され「あなた」との繋がりが回復したと言うことを証明し
ていることでしょう。


目にも肉眼があり、死後生き残る人格体にも眼があり、再形成された「あなたの私」の眼があり、そして
万物を全て等しく見ている「あなた」の目があると言うことでありましょうか

それなのに私達人類は決してこの肉体の目以外に全てを同時にあらゆる所から見ることの出来る目が
あるということを認ることはないでしょう。