海を見に行った塩人形




塩人形は海辺へ海を見に行き、徐々に溶け始め海と一体になってしまった・・


これはラマナ・マハリシの有名な言葉だが「思考の目」が「思考を超えている目」

に対しての行うワークに関してのとても的確な表現なのではと、推測している。


思考でありマインドであり私である私達の塩人形が「思考なく見ている目」という

「至高なる意識の大海」に出逢って溶けて行く様を上手く表現していると思われる。


塩人形即ち私達のマインドである自己自我は「思考なく見なさい」「思考なく在り

なさい」「私なく観なさい」と言われ続けており

そして、思考であるのに思考なく見ようとして努力をし続ける中、その思考の沈

黙の中で真の沈黙に出逢ってその沈黙の中に溶けて溶解していく様を表現して

いるのだろうか?

即ち、思考が活動している限り、「正しく見る」ことはあり得ないのだろう。



では「思考なく見なさい」と言われて私達はどのような態度をとるのだろうか?


①「私達とは思考自身であるから思考なく見ることは出来ない」と思い、見ることを

 諦めてしまうこと・・これが通常の一般的なその言葉を聴いた者の態度であろうか?
 
 しかしながら「私達とは思考である」云っているのは思考であって、私達が思考

 であるのか、思考ではないのかは思考には分からないし思考には判別出来ない

 のである。思考には「私は誰か」を知ることも無く、私を理解もできないのである。

 「私達は思考であるから思考なく見ることは出来ない」と言っているのは思考に

 よる思考の結論であり、確かに思考には思考なく見ることは不可能であるけれ

 ども、そのことを充分に悉知した賢者が私達に「思考なく見なさい」と言われている

 のはどうしてなのであろうか?賢者は塩人形に敢えて海を見ることを薦めているの

 は何故か?それは思考が超越意識の大海に触れて溶解することを求めておられ

 るのではないか。思考が去った後には元来あった大空がそこに在ることだろうと
 
 教えられているのだ。 思考には不可能であっても、思考が思考なく見ようと努力

 することをしないのは思考が自らの延命を図る巧妙な策略なのではないのか?



②全くその逆の「思考である私が思考なく見ている」と間違い思い込んでしまってい

 ること。この状態はよく「みんなで一緒に行う瞑想会」などで見られている間違いで

 あって「思考なく見ている」という至高の意識を単なる思考に依る「自己観察」とすり

 替え、取り違えている初歩的間違いである。思考がある限り正しい自己観察はあ

 りえないのであろう。思考には反応はあっても、見る「目」はないからであろう。


①も②も「思考なく見なさい」の教えへの正しい態度ではなく、「思考なく見なさい」と

  いう賢者からの教えに対しての思考に依る逃避であることだろう。


従って「思考なく見なさい」への正しい応答とは上記のラマナ・マハリシの喩えのよ

うに塩人形である思考の私が、上記のことを理解した上で敢えて「思考なき目」と

いう大海の意識に対して、近づこうと挺身し超努力することなのではないのか?


即ち思考自身が思考なく見ることに挑戦し、思考なく見ようとするその受容と思考の

静寂と思考の沈黙のなかで思考は「思考なく見ている目」の中へと溶解していく恩寵

が起こるのかも知れない。


この不可能なことに敢えて挑戦し、努力を重ねること・・思考自身が思考なく見

ようと挑戦し、思考が受容し、沈黙し、静まる努力を重ねること・・・・、この思考が

思考にとって不可能なことと思われていることに挑戦している中に思考の沈静化

が始まり、さらに「思考の溶解」が起こり始め、塩人形が海へと帰還するという恩

寵が起こりはじめるのではないだろうか?それが「思考なく見る目」へと繋がるの

ではないか?