自己否定



人は何故に自己否定をするのだろうか?

それは

自分とは自分のものであり、自分が生きているのだと錯覚しているからなのであ

ろうか?



ほんとうの現実としてこの私、自己自我とは、大生命によって生かされ生きておら

れているものなのではなかろうか。この自我である私とはミルダッドが言う「あな

たの私」と呼ばれているマインドなのではないだろうか?



この私、自己自我とは、この人生とは自分の人生であって、自分が生きているのだ

、自分私とは自分私のものであると思い込んでいるのだが

ここに、この私として苦しみ迷える私・自己として、実は大生命が生きておられるの

ではないだろうか?


それなのに私達は限られた思考の反応の範囲の中で自己を観察して、その結果

としてこの思考の自己は自分である自己に絶望し、自己から逃避しようとして自己

否定に走ろうとしている・・

自己をその同じ自己であるのに、自己が自分自身を対象化して、その観察している

自己が持っている極狭い限定されている視野、認識、意識の中で対象化された自

分を見つめ自分を観察し、自分の日常の仮面の奥の現実の醜い姿に直面し、恐れ

驚くのではないだろうか?


その結果として、いままではその世間体という仮面を付けていたおどろしい自己が

仮面を剥がされ、自らに明らかにされる。その明らかにされた自己が実際の自分

自身の自己の姿に直面し、自己にあきれ果て、自己に絶望し、自己を非難し、自

己から逃避しようとしたりして、自己を否定しているのではないか?


自己を否定しようとしているのは誰だろうか?それは他ならぬその否定されるべき

同じ自己であり、それは実際には、自己否定なのではなくて自己否定の装いをして

いる自己の延命であり、自己の生き延びを謀る巧妙な自我の策略なのだ。仮面

を脱いだ現実の自己から逃避し生き延びようとしているその当の裸の自己自我

の策略なのではないのか。それ故に究極の理解に於いては、この自己自我とは

神の道具であり行為と思考とは起こっていることであっても、私には自由意志が有

ると錯覚している自己自我には、その起こっている偽りの自由意志を用いて正し

く思考し、正しく行為することが最重要なこととなるのである。



では、なぜその様に自己が自己否定に走るのかと言えば、自分とは自分のもので

あり、自分が生きているとの錯覚がそこに生じているからなのではないか?

それゆえにその錯覚である自己には正しく思考し、正しく行う責任があるのだ。



その自己が自分自身のことを自分の所有であり、自分とは自分が自由に出来て、自

分が生きていて、自分の人生を生きているのだと錯覚し思い込んでいるので、その様

な自己を否定しようとしたり自己を殺そうとしたり、自己の消滅を謀ったりするのでは

ないだろうか・・その自己とは「あなたの私」・マインドなのではないのか。


それはあたかも子供が自分の持っているおもちゃに飽きてしまって、おもちゃを捨てた

り、交換したり、人にあげたり、果てには壊したりするのと似ている


それは自己と言う自我が付けている仮面を脱がされた裸の自己自我自身に直面した

際の当の自我による幼児的反応なのではないか?


この仮面を外された実際の自己自我とは、その自己自我の所有物なのであろうか?


それともこの自己自我とは万物と同じように大生命によって生かされ、生きられてい

るものなのであろうか?



この万物と同じように生かされ、生きられている自己が、自分とは自分のものであり

自分が自分の力で生きているのだと錯覚し、私は私のものであるとそう思い込んでいる

のではないのか?



そして、自分私とはそのようにして生かされ生きられているのに、私・自分が生きている、

この人生は私の人生であり、私とは私のものだ・・とその様に錯覚しているのではないのか?


そして、その傲慢と錯覚というマインド(アハンカーラ)が自己否定をしようとしているのでは

ないだろうか?


私自我とは私が生きているのではなくて大生命がこの私自己自我として生きておられるの

ではないか?

大生命が私として悩まれ、苦まれ、生まれ、そして病み、年老いて、死んで、また転生して

おられるのではないか?


それゆえに、自由意志を持っていて、自分は他者とは分離しているとの個別の実存が実感され

ている私がいる限り、即ち、心であり、思考である私という実感がある限り、このマインドである

私自己には正しく行い、正しく思い、正しく話す正道が求められるのではないのか?


自己が分離して実存し、そして自由意志を持って行為しているという実感がある限りに於いては

そして、この全ては起こり誰も行為していないという究極の真実の理解が顕現するまでは、自ら

が偽りの自由意志を用いて正しく行為し、正しく思うことが、非常に大切なこととなるのである。

その正しい思いと、正しい行為がこの「神の演技という私」には求められるのであると信じている。