「あなたの私」を包つつんでいる私とは?





私達である「あなたの私」は目を覚ますこともなく未形成のまま、目を閉じたまま肉体に転

生して身体と結合し、そこにいる私、即ち「行為と思考である私という自我」に包まれそして

覆われてしまっているのだろうか!!?

(ここで言う私達とは未知なる私と繋がっているが、未だその意識は顕現していない私達の事で
あり、その私の自己意識とはこの文章を書いている私や、読んでいるあなたの意識ではない。
真理を読んで理解したと思い込んでいる私も、色々と知っている私も又この対極にあるこのよう
な話題には全く関心がなくテレビゲームに夢中の私も「あなたの私」を包み覆っている私である。
即ち日常生活の日常意識において私自身だと意識されている私とは”「あなたの私」を包み覆って
いる私”である。悩み、苦しみ、計画し、思いを巡らし、思索し、行為しているのは「あなたの私」で
はなくて「あなたの私を覆っている私」なのである。
・・とかなり複雑なことを思考しているので整理してゆっくりと読んで下さい)


この私達である「あなたの私」とは未だ目を覚ましていないので、日常生活の内面に於いて出会い

そして発見され「私自身」だと認識されてる私とは「私を包み覆っている私」なのであって、通常の人

生に於いては「私は私自身である」と何の疑問も抱かれることなく「この私は私だ」と知覚され実感され

ていて、誰しもがその私は「貴方は貴方自身でしょう」と思い込んでいても、その私とは「あなたの私」

ではないもので「あなたの私」を包み隠している自称の「私は私だ」であるものだというのだ。思考の

記憶の反応といわれている私なのである。

この肉体や、この心や思考や感情である私とは「あなたの私」でもなく、勿論「未知なる真の私」でも

ないのだというのだ。



人類の教師は私達に対して次のように教えておられるのではないか

「心は未知なるものを知ることに於いては絶対的に無力である。心は未知なるものに

は一歩も近づくことは出来ない」


「私・自分は決して未知なるものへ至ったり、理解したりすることは出来ない。という

事実に気が付きなさい」




この超難解であり、また理解されることはないし、これからもないであろう、この言葉に対して、生涯の

テーマとしてそれでも必死にぶる下がっている自分としては徹底的に掘り下げてみたいのである・・・


人類の教師は何故あれほどまでに世界中で「あるがままをあるがままに思考なく、心なく、私なく見

なさい」と言い続けたのかは、私達とは、実はこの肉体に入った「あなたの私」であり、この「あなたの

私」が肉体に入って、そこで起こっている思考や行為や脳や肉体や心である私と同一化してしまって

いるのに対して「あなた」とは決して思考や心や私ではないのであるから、それらと同一化することなく、

思考なく、心なく、私なく見なさい!!なるのではなくてあるので在る!と教えられたのではないか。

思考の記憶の反応である私とは「あなたの私」を包つつんでいる私であって私なのではない。教師から

心なく見なさいと言われている私は思考の記憶の反応の私ではなくて、思考や心や私ではない「万物と

分離していない未知なる私」なのである。それ故に思考なくあるがままを見なさいとその「形成途中の神」

「私という産着に包まれている神の子」に彼は言い続けたのだろう。




私達が自分自身だと実感しているこの心の私・自我の私は「私は自分の自由意志で生きているのだ」

と実感されているために、この起こっている行為や思考や知覚や認識や感情などの、媒体となって

いる肉体を自分自身だと何の疑いもなく思い込んでしまっている。人類の思考や心は、この生まれ、

成長し、死滅する神聖なる肉体などの身体といったものは他の万物と全く同じように大自然・大生命

の大いなる営みの一つとして大叡智により創られ維持され生きられているという事実に対しては全く

全然気が付かない・・ということなのであろうか。私がではなくて肉体が生きておられ、そして成長され、

食事をされ、呼吸をされ、知覚され、感覚され、思考され、行為をされ、病気をされ、そして死んで行

かれるのである。




肉体に入った「あなたの私」が私だと錯覚してしまっている「この自我である私とは心自身の私」であ

り、この心である私自身即ち、私自身であると実感しているこの生きて日常生活を過ごしている私も、

そして死後も継続して同じように生きている私も、その私とは結果として起こっている私であり、その

私が私の自由意志で思考し、思い欲っし欲望しているのではなくて、それらは起こっているというのだ。

この自己意識であり人格である私は、その観念や行為と同様に、その私を見ている私自身も同様に

それらは全て起こっている結果であり、済んでしまっていることなのではないのかと???!




私たちである「あなたの私」が眠った状態で未形成のまま肉体に入って、そしてそこで目にする怒ったり

悲しんだり、プライドを傷つけられて怒ったりする自尊心丸出しの「私自身」は、「あなたの私」自身では

ないというのだ。それらのあらゆる出来事や運命やカルマ、それらの引き起こされている心や思考や欲

望そして強烈なる自我も「あなたの私」が肉体に入った結果として、この身体に起こっていることなのでは

ないだろうかとそう教えられているように思える。