正しく見る
もし、正しく見ることが起こったならば
その正しく見ている目とは目そのものであり、その目には「私である思考」を含んでい
ないことだろう、又、その目には多分、「私という自己感覚や自己関心」を含んでい
ないことだろう。
それは丁度、心臓を動かし、呼吸をなし、血液を創り動かしているのが私ではない
ように、正しく見ていることが起こったとき、そこには「私が見ている」という自己自我
の錯覚はなく、私・思考は働いていないことだろう。
また脳を創り、脳内化学物質を生じさせ、ニューロンを動かし働かせ、知覚や記憶
や認識作用を起こしているのは、「私という思考」ではない様に、正しく見ていることが起
こったとき、「見ている私」はなくて、そこには「他と分離している私」や思考は働いてい
ないことだろう。
神のために命を捧げて戦争に赴き、戦って敵を灰燼させ、またテロで自爆する信仰者の
私とは?その聖戦で神のために命を捧げている私とは?・・・その私とは報いを求めて
見返りを期待している私、自己関心の私、「私は他と分離していると錯覚している私」イコ
ール思考なのではないだろうか。その思考である私とは決して正しく自己観察するこ
とは出来ない・・・何故なら自分自身を対象と主体に分離分割しているマインド=思考
=私であるからであると。本当は神のために血を流しているのではなくて、自分の為に
命を捨て、自分の為に血を流しているのではないのか?そのような自他に分離している
私がいる限りそこには正しく見ることとは起こっていないのだろう。
けれども、もし自己を正しく見る事が出来る目が起こったならば・・きっとそれは、その時
その自己観察をしている目とは、思考の目ではなく、マインドの目でもなく、私の目で
もなく、「私なく見ている目」それ自身であるのだろう。
目とは本来は私のものではなく、それはすなわち思考のものではないと思われる。肉眼で
さえ五感の見る事という神聖なる目の作用がいまここに起こっているのにもかかわらず
その視覚や知覚や統覚を私のものだと錯覚しているのは私であり、その私とは即ち思
考であり、「自分の目であり私が見ていると錯覚している私」=思考の方が間違っている
のではないだろうか。
私が見ているのではなくて、あらゆるレベルの見るという事は起こっているのではないのか
この限定されている肉眼の視覚でさえも神聖なる見ると言うことが起こっているのに私達
思考は「私は自分が見ている」と錯覚している。
自己を正しく見ることが、即ち、「正しい自己観察」がもしここに起こったのならば、その時、
自己を観察しているのは、「自己関心という自我・自己・思考」ではなくて、「自己・私を
含まない目」、「即ち思考ではない目」、「高次思考の目」「思考ではない目」であることだろう。
そのとき、自己を含まない目とは勿論、思考や心ではないので、思考や心や私を、思考
なく、心なく、私なく観ていることが、きっと起こっているのだろう。
そのときそこには思考や心や自己は姿を消していることだろう。身心が脱落し、脱落した
身心(再形成された諸身体)であることだろう。
畢竟、目とは私のものではない神聖なる目なのであるのに、それを私の目だ、私が見
ているのだ、私が自己観察しているのだと思っているのは、思考や心や自我・自己な
のであり、思考や心や自我・自己・私がそう錯覚しているのであろう
もし万が一正しく見ることが起こっているのなら、そこには思考もなく、心もなく、私も
なく、見ることだけがあるのだろうか。見ている目とは私を含んでいないことだろう。
私を含んでおらないので万物と分離しておらず、万物それ自体であることだろうとい
うことなのか。
しかし残念なことながらこれを書いている私も、読んでおられるあなたも現在の私即ち
自我であり、この自我である実存の私が変革され、この書いているような内容の私になって
いない限りは、この私が書いていることは単なる想念、観念、哲学であり、頭の中の体操
でしかないことだろう。何故ならいくら「自我は起こっていることだ」と宣言しても、その様に
宣言している私、即ち現実の私が自我である限り、自分は起こっていることであるとの実
際の知覚も体験もなく、単にそのように考えているだけであり、本当は自我が嘘をついて
いるのに過ぎない。そうではなくて現実のこの私である自我が自我を愛するようになるこ
とが出来るようになるのが私である自我の勤めであり責任ではないのか。
ではどうすれば良いのであろうか?それは具体的にこの現在の私すなわち自我が自我の
知覚を現在の五感から超五感へと進展し、具体的にこの自我が「内奥にあると言われている
上記のことを自分自身として書けるような私」に進展することが、本当に自我の自我に対しての責
任なのであり、私のように自我であるのに、あたかも自分が悟ったかのような記述をすることは
嘘をついていると言えよう。