指一本動かせない






私には指一本さえ動かすことは出来ない!!?


実際には、指一本動かすこととは現在意識である「私・自己」には出来ない事なのではな

いのかと思われます。


実は、この指一本を動かすこととは神聖なる大生命が起こしておられることなのでありまし

ょうか。

これは余りにも常識から遠く外れているのみならず、多くの哲学や宗教の教えからも異なって

いることなので、慎重に思考して、熟考していきたいと思います。



肉体は神の宮であり、この神の宮に入ったのが大生命と繋がっている「無限の可能性のあ

る私」であり、その「無限の可能性のある私」が自分自身だと思い違いをしているのが「潜在

意識層を構成している思考の記憶の私」であり、その思考の記憶の私が「私は肉体である」

「私の才能だ」「私の人生だ」「私が行為している」と思い込んでいて、日常生活での自己とし

て意識している私、即ち「思考の記憶の反応」即ち現在意識である「私・自己」であると思わ

れます。ですからここで述べている私とはこの脳に起こっている思考の記憶体の反応であ

る現在意識の「私・自己」のことであって、肉体に入って脳に結びついたところの大生命と

繋がっている「無限の可能性のある私」のことではないことを初めに申しあげたいです。



道元の言う大生命の「真実の人体」とは肉体やこの「私・自己」の身体とは異なっており、道元

の言う「尽十方界真実人体」とは、時間や空間を超えて拡がっており、この「真実人体」はこの

「無限の可能性のある私」には既に与えられているのだと言われております。


この事の実際の覺知とは私のようにただ単に思索するのではなく、深遠なるサマーディを

通じてのみ理解し領解出来ることなのでありましょう。




さてこの「指一本を動かす」という行為に関してですが

行為とは自由意志で「私・自己」が行っているように見られておりますが、実は自由意志という

ものは「私・自己」を通じて起こっており、そして行為が為され、その行為を「私・自己」は自分が

為していると思い込んでいるのに過ぎない・・・と言うことなのかも知れません。



人体組織のことを考察すれば、行為はもの凄く複雑な要素が絡んだ結果としてであり、たとえ

簡単な指一本を動かすことさえも大生命にしか出来ない事なのではないのかと思われます。



行為・・・これは本当はもの凄く礼拝すべき根源のマーヤのことなのかもしれません。

これは、今ここに、好ましいことも、好ましくないことも、こうして神聖なる出来事が起こっているの

かもしれません。




この指一本動かすということとは

血液を循環させること、呼吸をすること、神経を統括させて知覚認識を生じさせることと同じく

また細胞を分裂増殖させ、所定の臓器や神経として成長維持させ、そして老化させ死亡させ

ることと同じく、

また食べ物を味わうこと、花々を見て綺麗だと思うこと、朝に目覚めそして夜には眠ること等

それらは同じように、これらは「私・自己」が為しているのではなくて大生命が興し、大生命から

起こっている事なのだと思われるのです。


指を動かすことは私達「自己・私」に対して動かそうと言う意志を発生させ、脳を動かし神経を

正常に動かせしめ、複雑な筋肉の動きや、あらゆる体内の統合した共同作業が不可欠で

あり、これらのネットワークの連携作業の結果であってそれは、記憶の反応である「自己・私」

には不可能なことでしょう。


「条件付けられている脳から生じた現在意識」即ち「私・自己」には意識されていないことですが、

・・実際には指一本動かすこととは、あらゆる脳と神経と筋肉などによる全ネットワークの超厳密、

超複雑なる共同作業の結果なのではないのかと思われるのです。これは神業であり、まさに根

源が引き起こしている神聖なるマーヤのように思えます。



またこのような行為のみならず個人個人の性格や才能や運命や特性を生じさせ、かくの如く

にあらしめて、自分が生きている、自分が為しているという錯覚をマインドを使って起こしておら

れるのはこの「私・自己・現在意識」にとっては未知なるところの大生命なのではないのかと思

われるのです。



そういうことで、本当は「自他に分離した私」や、大生命と分離した私など存在していないのでは

ないのかと思われるのです。未だ意識化されていないけれども私とは「大生命と繋がっている

無限の可能性のある私」であり、その私は全ての人類とまさに一つの同じ私であることでしょう。

そしてその私が肉体に入ることによって脳で受信した思考の記憶である「私・個人・人格」のこ

とを自分自身だと錯覚してしまっているのでしょう。

即ち私とはこの「私・自己」ではないということであり、私とは脳のマトリックが生み出した「私・自

己」では決してないと言うことでありましょう。



その私に反して

この「私・自己意識の私」とはその起こっている思考、その思考それ自体であり、起こっている

思考が即、私自己意識そのものであり、私、私がと言っているのはその思考それ自体なのであ

りませんか。この「私・自己」は大生命と繋がっている私ではない「思考の記憶」なのです。



・・・これらのことは全く以て常識では考えられず、世の中には受け入れられない

ことでもありましょう。

けれども知性で理性的に、よくよく思考すればだれでもこのことは理解出来ることなのではない

でしょうか。



「私の人生で、私が生きているのだ」という錯覚は大生命が起こしておられることなのでは

ないでしょうか、この「私・自己」という錯覚とは神聖なるマーヤなのではないでしょうか。


愛である神が自らを自己認識するために現象世界を創造されているのでありましょうか。


しかしながら、これを読んでおられるかたは、必ずや「いや生きているのはこの私であり、私が

考えており、私は肉体であり、私が行為しており、運命とは私の運命であり、私が自分の自由

意志で行為しており、自分の人生を歩んでいるのだ」と思うことでしょう。


しかしながらそれを言っているのは「大生命と繋がっている無限の可能性のある私」ではなくて

その私が脳に入ることによって、脳で受信した「思考の記憶の私」の条件反応なのではありま

せんか。

そう言う訳で誰もが決して意志とは起こっている意志であり、行為とは起こっていることなのだ

とは露にも思わないことでしょう。



この大生命が起こしておられるところの「条件付けられている脳」から生じている思考の記憶体が

「私・自己意識」なのであり、その「私・自己意識」が「私が生きているのだ」「私の身体だ」「私が呼吸し

ているのだ」と思い込んでいるのですが、しかしいくらそのように思い込んだとしても、しかし事実とは

その「私・自己」が考えている常識や結論ではなくて、厳然として真実なのであり、真実とは、この肉体

と脳を創って生きて行為しておられるのは大生命(それはすべての人類のみならずあらゆる生物も同

じである)が生きて行為しているのであり、「私・自己」ではないということなのかもしれません。


大生命と繋がっている無限の可能性のある私はですから決して肉体でもなく、脳が受信している思考で

もなく、その思考の記憶である「私・自己」でもないということでしょう。

その大生命がいまここに、肉体や諸身体を使い、このように「私・自己」として思考し、行為し、意志し、

生活し、結婚し、そして老い、肉体を離れて行くのだろうと思われます。

・・・生きておられるのは私ではなくて大生命が「私・自己」を使って演じておられるのでは・・・。

「私・自己」とは「大生命と繋がっている無限の可能性の私」の前に繰り広げられている源泉からの

映画・ドラマなのではないのでしょうか。その「私・自己」とは決して大生命と繋がっている無限の可

能性のある私ではなくて、その「私・自己」とは無限の可能性のある私を覆い尽くし、そして混合し包

み隠し、自己を詐称している「私・自己」であるように思えます。



この「私・自己」が生きている・・のではなくて、大生命が「私自己と言う意識」を生み出され、生かし生

きておられる・・これが真相のようにも思えます。

実際には、この大生命が、演じられ生きて、行為して考え意識的自己として、即ち「私・自己」として生

活し、演じておられるのでありましょうか。



私としてあなたとして、味方として敵として呼吸し歩み、それぞれの人生を生きているのは大生命

なのであり、条件付けられている脳が生み出した思考の記憶である「私・自己」を使って神が行為して

おられるのではないのかと思われます。この事を平たく言えばこの意識的自己である「私・自己」も

そしてこの思考も感情も記憶も、全ての起こっていることとはマインド心を通じて神である根源・大生

命が起こしている神聖なるマーヤ・映像である、と言うことなのかも知れません。



この私として、あなたとして、万物のそれとして生きておられるのは大生命に他ならないのに

この「大生命と繋がっている無限の可能性のある私」は「私・自己」という記憶体や肉体の衝動

や欲望のことを自分だと思い込んでしまっているということなのでしょうか。



「私・自己」が生きているのではなくて、いまここに大生命が生きておられるのであるとおもうのです。



「私・自己」が非難し、嫌がる相手とは、同じ大生命であり、私が憎む敵とは私と同じ大生命なのでは

ありませんか。

「私・自己」と同じ大生命があなたの「私・自己」として、私の目の前のあなたとして生きておられるの

ではありませんか。


大生命が、根源が、すべての「個人の私・自己」として全ての生命として、万物として生きておられるので

ありましょうか。

この「私・自己」とは「大生命と繋がっている無限の可能性のある私」の目の前に繰り広げられ

ている映像・神の演技である。

そしてその大生命の子供である「大生命と繋がっている無限の可能性のある私」はその神の演技の私・

映像の私である「私・自己」のことを批判なく、判断なく、思考なく、心なく、私なく観ていることでしょう。



・・・と、そのように思うときもある今日この頃です。