分離の考察




考察できないことがらを、考察しかできない私・マインドが考察してみた。

それは分離、二元についてなのだが・・

私達はこの世でもあの世でも、自分がいて、そして自分以外に他人や出来事や

社会や世界や宇宙が自分とは分離していると、そう実感しているのだが・・それ

は勿論、世界中の全ての人がそう思い、それは極く当たり前のこととして、世界

の誰もが疑問には思わないことだろう。自分とは別に、自分と分離している存在

として他人がいて、敵や味方がいて、善人がいて悪人がいるとそう実感している

ことだろう。

この分離二元と言うことは誰にも全く問題視されないことだろう・・

対象が自分とは分離して存在していることについては異次元の存在方にも全く

問題視されていないことだろう。



しかしながら、この当たり前のことである二元分離について少しばかり考察してみ

たい。

二元分離とは「他者と分離しているという私」が存在していて、そしてその私が

行為して、その私が思考して、その私が輪廻しているという「私という観念」の

の実感のことでもあり、その次元の実感でもあることだろう。私達である「意識

の座」・鏡がその私という観念に覆われてその観念・次元界に縛られている限り

は、行為と思考は「私が為している」のであり、従って、当然のことながらその行

為と思考の責任は、その思考し行為している「分離している私」(即ち私という観

念)が負うことになるのではないか?・・・と思うのだが。


しかしながら思考や心や分離している私という観念ではないところの「意識の座・

鏡」を覆ってしまっているその「私という観念である私」は本当に自他に分離し、世

界と分離し、対象と分離しているのであろうか?その分離とはその私という観念の

無知なのではないのか?



私とは本当に私が見ている世界や他者と分離して異なっているのであろうか?

この分離二元の錯覚とは世界中の誰もが同じマインド・心なのであるから同じように

錯覚しているのではないのか?


この分離二元については味方も敵も、この二元性に覆われ、私という観念に覆

われてこの分離という二元性に包まれていて、二元性から逃れることは出来ず

に、自分は自分が見ている対象とは異なっている。

私とは世界とは個別の分離している断片存在だ、私が行為し、私が思考しているのだ

とそのように思っていることだろう・・ということなのだろうか。


私が行為している、私が思考しているという実感とは脳から生み出された行為と思考

それは即ち私という観念・マインドの実感なのではないだろうか。


鏡である私達は「私という観念の私」という色眼鏡を附けられて色眼鏡の世界(自我が

見ている分離世界)を見ているのだ・・・と、そういうことであろうか?


この自分は世界とは別であり、私は他人とは異なっており、私が世界を見ている

のであり、私が即世界なのではない、私とは世界を構成している一部分であり、一要

素である、とそう実感しており、生きているのはこの個人の私だとそのように思ってい

るということだろう。


しかしながら世界中の全員が皆同じ二元分離の意識なのであり、その二元性の意識

は世界中の全ての人々である鏡を包んでいて、それは人間のみならずあらゆるもの

がそう思っている「神聖なるマーヤ」マインド・アハンカーラ(私という観念)なのではないか。




分離、それをそう思っているのは条件付けられている脳から生まれている思考・心がそう

思い込んでいるだけであり、実際には見ての通り、実は万物は全てが同じ構造であり

同じ原子と素粒子によって成り立っており、全ては同じ大生命によって生きられており

その様な二元分離とは大生命によって条件付けられている脳を通じて引き起こされ

ている「錯覚」なのではないかと思ったりするのである。



この条件付けられた脳から生じている錯覚を意識と言い、思考と言い、マインドと言い

心と言い、私達は私自身と言っているのではないのか?


そしてその私というマインドであり、心である意識は、自分は他人ではない、私は対象

ではない、私は対象とは異なっている、私は肉体であり、私は全体ではなくて個人であり、

私とはあなたではない、とその様に全く疑問を抱かずに完全にそう思い込んでしまっている。


・・・この脳から生じた意識は、自分は自分が見ている対象と異なり、自分とは対象から

分離している存在だとそのように実感しているのであろう。


自分が見ている世界を自分とは異なっている対象として知覚し認識し記憶する・・これが

条件付けられている脳から生じたマインド・心・自己の意識であり、それが地球人類の歴史

であり、全人類の意識状態だが・・実はこの意識は全く真実ではなくて間違っていると言え

るのではないだろうか。



これに反して、この脳から生じた意識ではない、脳を生み出して支えている大生命の意識

からの言葉が人類にもたらされている・・それが、「見るものは見られるものである」である

のではないか。見ているマインドは実際には分離していないのだ・・ということだろう。


「あなたはそれである」、「観察者は観察されるものである」という、このマインドには理解さ

れない未知なる意識からの言葉が人類にもたらされている。これは彼岸からの言葉である。


この高次の意識に関しては私は何も言えないので話せないのであるが、分離の意識を

生み出して使っている未知なる高次の意識が発現した場合には、このように心マインド・

私・分離のことを洞察する目が起こり、「見るものは見られるものである」と「理解すること」

が起こるのであろうか。


そのときのその「理解・目」は思考を含まず、心を含まず、私を含んでいないことだろう。