鏡又は意識の座
私達とは「意識の座」なのだと思われる。
私達とはこの意識されている意識ではなくて「意識の座」なのだ。
「意識の座」に生滅しているのが、このお馴染みの意識であり、こ
の自他に分離している私なのだと思う。
私達とは「意識の座」に顕れる知覚や認識や心や意識で
はなくて、それらが顕れては消えていく「意識の座」なのだと。
(何故なら私達はあそこまで強く思考なく心なく私なく見なさ
いと言われ続けているからである)
私達とは脳が生み出した記憶やその記憶の反応や知覚や
認識ではなく、思考ではなく、即ち意識や「心の私」なので
はなくて、それらが現れては消えていく「意識の座」なのでは
ないのか。
・・この「意識の座」は未だ覚醒していないので自分自身を
取り違えて「意識の座」に顕れては消え去る「私」という心や
思考を自分自身と取り違え自分だと錯覚している・・とそう
思える。
「意識の座」の意識は未だ目覚めていないのである。
肉体や脳と結合したジーヴァ(個別的霊魂)の意識は実は未
だ覚醒していないのである。
この脳が生み出し創りだしている知覚や認識や記憶の反応、
思考、出来事、そして種々の私・・・
それらは現れては消えていく「意識の座」を包んでいる心の
種々相であって、それらは私達自身である「意識の座」ではない。
・・私達は「意識の座」であり鏡なのであるからなのだ。・・と
教えられている。
私達であり、この「意識の座」の意識が未だ眠った状態で目
覚めていないので
「意識の座」を覆い「意識の座」を包んでいる心や思考や「分
離している私」のことを「意識の座」は自分自身と思い込んで
しまっているのだ。・・ということだろう。
「意識の座」とは鏡でもあり、その鏡を覆っている思考や心や私が
綺麗に晴れたなら太陽がその鏡を通じて光り輝くのではないか・・
私達自身は未だ眠ったままの状態であり目を覚ましていないのだ。
そしてこの目を覚ましていない私達の状態をヴィジュニャーナマ
ヤ・コーシャ、自我体、ジーヴァ、未形成のサイコノエティック体、
鏡、個別的霊魂などと呼称され言われているのではないか?