坩堝




ミルダッドは私達に対して篩ではなくて坩堝でありなさいと云われております。


非常に難解で高尚なミルダッドの言葉を理解することは不可能だとしても

自分なりの現在の考えを述べてみたいとおもいます。


それは私が思うに私達とは坩堝自身なのではないかと思うのです。


神の宮である肉体や、脳を与えられ、条件付けられている思考や感情や衝動という

欲望を与えられ、記憶体を与えられ、知覚や認識を与えられ、そして自己本位の「私」

という自我を与えられて、自分自身のことをそれらの「私」だと実感してしまっていても

またそして、私達はこの「私」という分離している自己を自分自身だと実感をしていても

この「私」は本当の私なのではなくて、私達とはこのように「心という私の目」に包まれ覆

われてしまっていても、未知なる内奥の本当の私すなわち主体と客体、自他に分離してい

ない神の子の私が私なのだと教えられております。


そしてその私達の現在の状況を坩堝と表現しているようにも思えます。


この事は三体が筒のように直結整合して(肉体の脳の状態+思考体+自我体が内なる未

知なる私と繋がっている状態のこと)いる状態の意識から言えば即ち次のように言えるの

かも知れません。


私は肉体ではない、私は思考や感情ではない、私は「私」ではない・・・と。


しかしながら、この言葉をもし現在の段階の私達が「私は行為していない」などというので

あれば、それは嘘をついていることであり、「私・マインド」という覆いに包まれている状態の

現在の私においてはその様に言うことは決して許されないことでしょう。


ここでミルダッドはこの神の子の私を覆っている現在の私の特徴を「篩い分けること」である

と教えられていて、私達に対しては篩ではなく、坩堝のように自分と世界を見なさいと教えら

れているのではないかと推測しております。



坩堝のように見るとは、混沌とみえていること自体を受け入れなさいということであり

自分自身が肉体や頭脳や記憶や思考や「私」に包まれ覆われている現実を拒絶したり

逃避したり、同一化したり、判断したりしないで直視しなさいということであるでしょうか?


思考である篩というものである分類、評価、非難や逃避をしないで、善悪や好悪や損得を

超越し、起こっていることをつべこべ言わずにあるがままをあるがままに凝視し受け入れな

さいと言っているように思えるのですが

皆様におかれてはどのように思われるのでしょうか?



自他を分離し、私と対象に分割しているのは心である私、即ちマインドとかアハンカーラ

と呼ばれている地球を包んでいる想念帯である「私」のことであろうかと推測しているの

ですが・・、即ちそれはこの現在の私(未知なる内奥の私を覆っている私)のことでしょう。


この自分と他者を分離分割しているマインド即ち「私」こそが篩であり思考であり、全てを

主体と客体に分割している心なのです・・・とミルダッドが教えられているように思えます。


しかしながらこの神聖なるマーヤである「私」マインドは決して分離しているのではなくて

自らが自らのことを分離していると思ってしまっている「私・マインド」の無知なのである・・

ということなのではないでしょうか?

(私がここで書いているのは決して理解ではありません単なる推測です・・念のため)

もしこの「私・マインド・アハンカーラ」を直視することが起こった場合には、神の子の私を

覆っていたこの「私」=マインド=篩・分割・分類・判断は脱落することでしょう・・とそのよ

うにミルダッドは教えられている様に思えます

神の子の私を覆っているこの私達は神の芸術作品なのだとも思ったりするのです。