肉体に入り肉体と結合した現在の私




神聖なる肉体に入って、肉体と結合し、そして魂の緒を切断されるまでこの肉体に

滞留するこの現在の私は肉体を動かして行為している。

行為はこの肉体と結合した現在の私が行っているので、当然のことながら

このサイコノエティック体である現在の私が行為の責任を負うことになるのである。


この現在の私には肉体を動かすことが出来るからである。

若しくは現在の私には自分が肉体を自由意志によって動かしているという実感が

ある以上は当然その肉体の行為には責任を負うということである。


ここでは現在の私が肉体を動かすことが出来るのは「大生命」が関与しているか

らなのではないかという憶測に関しては、それはより高次の知覚と認識を要するこ

となので現在の私であるこの私には触れることができない。

その話しは単なる頭の体操、頭の観念になってしまうからである。



肉体に入り肉体と結合した現在のこの私を観照していると言われる未知なる私は

行為とは関わっていないことであろうが、現在のこの私は肉体と結合しており

肉体を動かすことが出来るので当然のことながら行為の責任を負うこととなる。


しかしながらこの肉体に入った現在の私は肉体を離れても、肉体とは異なる身体を

持って同じように行為するのであの世での行為に対しても責任を負うこととなるであろう。


この事を書いている私とは行為している現在の私であり、そして同じようにこの文章を

見ておられるあなたもその同じように行為をしている現在の私であり、その現在の私

とは、「現在の私を観照している未知なる私」ではない。


この私とは・・自己自我自身であり、それはまた自己自我を観察しているこの私でも

あるからである。

私・自己自我を見ている私とはまさに自己観察の対象であるその同じ自己自我である

からなのではないか。


しかしながらこの自己自我が自己自我を観察するという行為によって、見る者であり

見られるものであるこの自己自我には徐々にひびが入り始め脱皮変化が起こるのではな

いのだろか?


ただし自己自我による自己自我の自己観察が非難や同一化や逃避と言った形で見られ

行われるとき、それは自己自我である現在の私の自我性に対して火に油を注ぐこと

になるのではないか。自我による自我観察は見ている自己自我が強大化するからである。


従って、この自分自身をこの同じ自分自身が自己観察するときには、見ている私であり

見られている私でもある「自己自我である自分自身」を決して非難せず、逃避せず

同一化せず、判断せず、大自然を見ているように、流れる河の中の魚を見ているように

耳をそばだて、耳を傾け、暖かく抱きしめ、見ている私と分離することなく自分自身を見る

ことが大切なのである・・と思われる



 なぜならこの現在の私は自己自我と一体化していても未知なる私とは決して分離して

いないからであると・・。

現在の私は多くの私に包まれて混濁していても内側では真の私と繋がっていると・・・。


ミルダッドは言う

万物への意識を成長させて初めてあなたは、自
らのうちにある万物の意志や、万物のうちにある
あなたの意志を意識できるようになる。

 万物のうちにあるあなたの意志と、あなたのうち
にある万物の意志を意識するようになって初め
てあなたは、〈全能の意志〉の神秘を知ることが
できる