このカルマを受けとっている私とは
ミルダッドはこのように教えられている
この私は幻想、神から分離したこの人格は、新しく
開いた眼の幻想。この幻想の自己は実体がなく現
実性もない。
それが生まれたのは、人間がこの自己の死を通
じて自らの本来の自己、即ち神の自己を知るた
めである。
この幻想は外の目がくらまされ、内の目が輝かされ
るときには消え去る。
それ故に
この幻想の自己・私である現在の私・人格・個人の私の行う行為と想いと欲望とは
カルマを司る全能の意志によって完全に水も漏らさず全てが記録され、その行為
と思いの結果とは
この幻想の自己が受けとることになる
・・ということだろう
しかしながら、上記の高次の視点からは幻想の自己と呼ばれている私・・
・・この意識的自己である現在の私とは人格や個人であると同時に「真理の種子」
でもあり、「生まれ変わる可能性」(輪廻ではない!!)のある私でもあり、
内奥では永遠のパーソナリティーと繋がった私でもある。私達は濁っており
エレメンタルや思考の記憶に覆われ一体化していても「脱皮する可能性のある私」・
内奥では永遠のパーソナリティーと繋がっている現在の私・現在のパーソナリティー
でもあるのであると思われる。私達は決して記憶の反応だけではないのだと思われる。
※ラマナ・マハリシなどの本を読んで現在の私が行為していないと・・その様に
錯覚している人が多いけれども
行為をしていないのはこの意識的な現在の私ではなくて、現在の私にとっては
未知なる「内なる永遠の私」であって、この幻想の自己である現在の私には行為
は起こっているのではなくて「私が行為して」おり、そして当然のことながら、その
「私」が行為の結果を受けとることになるのではないか。
この「私」とは「死」ぬことによって蛹から蝶へと変身する可能性のある現在のパー
ソナリティー(肉体ではないサイコノエティック体の私)のことであろう。