自己観察のやり方
自己観察のやり方とは非常に難しくて、下手をすると自己に巻き込まれてしまい
自己観察しているつもりがさらに、その観察している対象の怒りや不安や恐怖
に巻き込まれてしまうことがあるといわれております。
だから自己自身を正しく観察する方法がとても大切らしいのです。
どんな人でも、意識がすっ飛んでいない限りは、自分が怒っているときでも、その
怒りに気が付いて、怒りを意識しているはずですし、気が付いていることでし
ょうが、
ここではその怒りに気が付いている際に、どのように怒りを観察すれば良
いのかの私なりの方法を模索していきたいと思います。
怒りや不安や恐怖や暴力が自分の心の中に沸き起こりやってきたとき、どの
ようにそれらを観察するのが良いのでありましょうか?
私はまだそのレベルではないのですが、その筋の専門家の方の意見によると・・
その怒りや不安や恐怖などといういわゆる否定的想念に、気が付いて、その怒り
などに集中してしまうことは、かえって、その怒りや不安に巻き込まれて怒りなど
を増大させてしまう・・といわれております。
また、その時、その自分の心の中に起こっている怒りや不安や恐怖や暴力などに対して
非難したり、注意をそらすことで逃避したり、それらが心の中に起こらぬように祈ったり、
それらを分析したりしたとしても、一時的には逃げることは出来てもまた襲ってくること
だろう・・・とも言われております。
また、それらを自分の一部として、自分自身として受け入れたり、抱きしめようとしても
それをしているその怒りを観察している私は、実際にはその怒りを受容しているのではな
くて、怒りから逃避しようとして「受容もどき」を演じているのであれば、それは怒りに対して
の正しい自己観察ではないのではないか?ということです。
この自分自身の内部に発生している怒りなどに対する自己観察の専門家は、怒りが
起こっているときにその怒りを「意識」していると同時に、怒りを観察している自分自身に
対しても「意識」を向けなさい・・・と教えられています・・即ち自己観察と自己想起ですが
心の中に起こる不安や怒りや恐怖に気がつくと同時に、その怒りや恐怖に対して気が
付いてそれらを逃避したり、非難したり、一体化してしまっている自分自身に対しても、
同時に意識を向けなさいと教えられています。
怒っているとき、その怒りに意識を集中させるのではなくて、怒りに気が付いて怒りを
押さえよう、怒りを解消しようとして祈ったりしている私自身に対しても同時に「意識」
を向けなさいと言うことなのです。対象と主体の双方に「意識」を向けなさいという
事でしょうか。
怒りが沸いたときに「大空に浮かんでいる雲を見るように意識向ける」と同時に、怒り
に気が付いている怒りの観察者の動き・・・「怒りから逃避しよう」、「怒りを非難し判断
している私」それら私自身の反応に対しても「意識」を向けなさい・・と言うことでありま
しょう。
この怒りとその怒りを見ている観察者双方に対しての「意識の向け方」こそ、最大の重
要な自己観察の方法であるというのです。
ここでもし、その怒りに対して「意識」を集中させた場合には、火に油を注ぐようになる・・
そして、その怒りに取り込まれて怒りを増大させてしまうことになることだろう・・と言われ
ます。
ではどのようにしてその怒りに対して自己観察をすれば良いのでしょうか?
正直言って私はそのレベルではないのでよく分からないのですが
おそらく、正しい自己観察とは、怒りに対して集中したり、逃避しようと反応したりする
のではなくて一歩下がって「怒り」と、そして「その怒りの観察者」に対して
「遠くから蟻の動きを観察するように」
「樹々の葉っぱが風に揺らいでいるのを観察するように」
「ポッカリと大空に浮かんでいる雲を眺めているように」見ること
そして、それと同時に
「それを観察して逃げようとしている私自身のあるがままの姿を正直に見ること」、
即ち沸き起こっている怒り・不安・恐怖を「遠くから蟻の動きを見る」ように見る
のと同時に、同じように怒りを見ている「観察者である私のありのままの姿」を
即ち「見ている私」を正しく見るということが正しい自己観察へのスタートなのだ
と言われております。
「大空が真の私であり、そこに浮かぶ雲のように「怒り」「不安」「恐怖」という「こ
の私」と、そして「この私の観察者」は来ては去って行くのだと・・・。
・・・これを読んでおられるあなたはどう思われますか?