思考を見ているもの
・・・・今日思ったこと
(私たちは「思考なく見なさい!」と言われている)
思考を見ているのは思考なのではないか。内と外に、自と他に自我を見ている私とは見られている自我な
のではないか。
(恐怖を観察している私は、その対象である恐怖だという。その恐怖が自らを対象化し「私によって見られている
恐怖」として自分自身を対象として自らを知覚しているのだと。)
私と思っているのは思考であり、思考が自己関心であり、思考が自他に分離していると
実感している自己なのであろう。
(私という「思考」がその思考を自らを分離して自己として又他者として知覚して自らを非難している。)
では、この私とは思考の反応の私であり、「思考なく見ている目」を覆い包んでいる私であるけれども
「思考なく見なさい」と言われているところの、「思考なく見ることの可能性のある私」なのではないか?
「思考なく見る」ことが出来ないと思っているのはこの思考である私なのではないか。
「私は思考なく見る」ことが出来ないと思い、そう思考しているのは思考である。
そして思考とは「精妙な物質」なのではないか?
それゆえにあらゆる物質はそれに対応した一定の私という意識を保有しているの
ではないのか?
思考ではない「未知なる内奥の目」であるならば「思考なく見よう」としないであろう、
それは既に「思考なく見ている」からである・・と思われる。その思考なく見ているのは「私」ではなくて
「私」を含まない「万物」である・・と教えられている。「万物」が思考なく見ているのだと・・・。
「私が見ている」「思考でもって見ている」のは思考だからであろう。
それゆえに思考がないとき「見ている私」、「観察している私」、「体験している私」はいないこと
だろう。
「思考なく見よう」としているのも思考であることだろう。
「思考なく見よう」として色々と努力してワークし試行錯誤しているのも思考であるからだろう。
この「思考」を見て観察しているものは誰であろうか?それも思考である私であることだろう。
なぜならそこには「見ている私」「自身を観察している私」がいまだに残っているからである
・・・ということなのか。
「私は思考なく見ている」と思っている私とは思考であることだろう。
「私は自己を観察している」のは私という思考であることだろう。
何故ならば、「思考なく見ている」のは私ではない万物であることだろうからだ。
「思考なく見ている思考ではない至高の気づき」とは「思考という私」即ちこの私ではないことだろう。
「気づきは気づきに気づいていない」と教えられているからである。
従って思考が「私は思考なく見ていると思考して」いるということになる。
何故なら、もし「思考なく見ている」ならば、そこには「思考なく見ている私」はいないはずだからである。
「思考なく見ている私」という私がいないとき、そこには「思考なく見ている」ことが起こっているのだろう。
この思考が、そして「見ている私」が未知なる「思考なく見ている目」を塞いでいる「私」であることだろう。
この私が未知なる「思考なく見ている目」を塞いでいる・・ということになる。
「思考なく見ている目」は思考である私が脱落することが起こることによって・・・
未知なる目を覆っていた「する」「行う」「なる」が離れる事が起こることによって顕現するという。
そこに本来既に在る「思考なく見ている目」が内奥から顕現してくる・・と教えられている。
これは恩寵であろう。
その時丁度、蛹が自らを突き破って蝶となり大空を飛翔するように
今まで「思考なく見ていた目」を覆っていた「この思考の私」が終焉することによって
そこに新たなる意識となって「思考なく見ている目」と一つのものが新たに誕生するのだろうか?
今まで「未知なる私」を覆っていた思考の反応の私が、自らの命を失うことで、そこに新たなる命が
誕生する・・・「内なる私と繋がっている私」が誕生するのではないか?
「この私が友のため命を捧げる」、愛によって自らを失うことによって、新たなる命が誕生するので
はないのかと思うのである。