自己実現


今日は自己実現について考えてみました。


自己実現・悟りとはなんであろうか?

それはこの私が未知である内なる私・永遠のパーソナリティーに繋がることだろうか。


ではこの自己実現を一生懸命に求めワークしている私とは誰なのだろうか?

それは勿論、自己実現していない私であり、だからこそ自己実現しようとしている。


自己実現している私であるなら既に自己実現しており自己実現しよう等とはしないわ

けであるから、自己実現しようとしているのは自己実現している私を覆っている自己

実現していない私なのであろう。


ではこの自己実現していない私が求めている自己実現とは一体何なのだろうか?

この私が求めている自己実現、悟り、真理、神、永遠の幸福とは何なのだろうか?



それは自己の拡張なのかも知れないし、自己が更なる高次の知覚と認識を得て、

自分が山の頂点に立つことであるのかもしれない・・・即ちそれは私の隠れている自

我の支配欲であり、自我のあるがままの欲望なのかもしれない?


それだからこそ、その自己実現に励むその人の周りには悪臭が漂い、何も育って

いかないのである・・・自我の強烈な自己達成欲がそこには充満しているからだろうか。


この自己実現という悟りを求めている私は、内なる私を覆い尽くしている現在の

私であることだろうし、高い観点からすればそれはエレメンタルと言うことなのかも

知れない。

だから

私は「自分とは神や悟りを求めていると思っている」が実は悟りを求めているので

はなくて「自分の満足」を求めているのである・・と言われている。

自分とは自己拡張欲、支配欲、自己実現欲という欲望そのものであることにこの

自分が気がついていないのかもしれない。



自我が自我から逃げようとして酒場や競輪や集会や教会へ逃避するのと同じ様に

宗教などに悟りを求めている私は自分自身である自己から逃避しているのである。

と言われている。


自己が余りにも不安や恐怖や高慢や暴力であるので、自分は、より優れた知覚や

認識や安定を得て、自分が一段と高い地位に登り詰め、自己から解放され楽になり

平安になりたいので、その自我である自分の快楽の欲望の満足を求めているのだ。

とも自分に関して高次の教えでは言われている。


それが自分・自我が行う、自分からの逃避なのであろうか?


それは又、更なる高度の知覚や認識を獲得して神秘体験を経験し、神の右に座

りたいと思っているのであろうが、それはまさに私という自我の執念に他ならない・・

と言うことかも知れない。

その悟りを求めている私とは自我であり、それが神の如くになろうとする現在の私の

本質なのであろうか?それが神の使徒と称するテロリストや宗教人の現実であろうか。

テロリスト達は自分の姿を見ることが出来ずに、この自己自身から逃避しているという

ことか。



より自分が聖なる歓喜に満たされ、高い境地に至ることを求めているのは、現在の

自分からの逃避であり、自分を自分が憎んでいるのであり、自分を愛することをしな

いで、自分がより高次の自分になろうとすること。即ち他の人のことには無関心であり

自分だけが自分が神の右側に座ろうとする、自己実現欲、自己拡張欲、自我の欲

望なのかもしれない。最も大切なことはこのどうしようもない私が、このどうしようも

ない私を受け入れて抱きしめ、観照し愛することなのかも知れない。



悟りを求めている私とは、悟っていない私であり、その私は自分は神を求めている

素晴らしい人間だと思っていることだろうが、それは錯覚であり未知なる私を覆って

いる私、実は欲望丸出しの自我なのである・・ということであろうか。


それは自分は肉体であり、この現在意識の思考や欲望や感情だと思い込んでいる脳の

条件付けであり、「私というエレメンタル」・自我の姿なのだと教えられている。しかしながら

この教えは私達である現在の私の観点ではなくて、この現在の私を観照している、この私に

とっては「未知なる私の観点」であることをこの現在の私は認識しておく必要が有る。



悟りを求めているのは、心の奥で自分は悟っていないと知っている「悟っていないこの私」、

即ち自分とは他人と分離していると固く信じている「個人という人格・この私」であり、自

分は肉体だと実感し固く確信している自我、即ちマインドであるこの私なのではないだろうか?

そのマインドの人格の私が死後も同じ錯覚で生き残って転生する私と合体するのではないか?


その自我が考えている悟りというのは、実は悟りではなくて悟りで獲得できる果実を求めて

いるであり、報酬なのであり、それは自我が考えている法悦や、高度の知覚や自己からの解

放であり、その自己達成、自己実現という拡張であり、それはすなわち自我の願望であり、自

己の満足であり、私自己の快楽であり、自己自我の達成であり、現在の私はそれを求めている。

それは自己の支配欲なのではないのか、私は実際には悟りを求めているのではなくて支配を

そして満足を求めているのかもしれないのだ。


この自己自我の支配欲が姿を変えて、自分自身に対して「私は悟りを求めている」と自己欺瞞

に陥っているのかもしれない。


悟りを求めているのではなくて、より高い知覚やより深い体験や、真実の認識と言う満足を

求めているのであり、その自己実現を求めて実践している私とは自我であり、自我の欲望、

自我の拡張欲、支配欲なのではないか?だから自分は良くなって愛されたい、宇宙にまで

拡大したいと思っている。物質的なダイヤモンドだけでは飽き足らず霊的な至福まで手に

入れようとしているのかもしれないのである。




”あるがままの私があるがままの私をあるがままに受け入れずに、このあるがままの私が何

かに至ろうとしたり、何かに成ろうとすることは、あるがままの私を理解しようとしないことであ

り、あるがままの私からの、あるがままの私の行う非難や逃避に他ならないということだろう。


又同様に、あるがままを受け入れずに、あるがままを変えようとしたりすることは、あるがままを

理解しないことであり、あるがままからの逃避なのかも知れない。”






それ故に悟りを求めている私とは、常に自我の悪臭が漂い、慈悲心や愛の欠けらもなく、腐った

自己関心の波動を周囲にまき散らして、周囲を隷属させ、自分が一番で支配者となり尊敬される

ことを願ってやまない自己欺瞞の私すなわち自我・現在の私なのであろうか。

「自分は特別であり、神に特別に選ばれていて、みんなとは違うのだ」と思っているこの私こそ

最も一般的なこの現在の私の姿であるというだろう。だからこそ私から逃避しようとしている私を

同じ私が抱きしめ、一緒にいて、耳を傾けてあげることが正しい行いといえるだろう。