観察者



観察者とは自己の条件付けに気づいて、自己を観察している私のことですが、

日常生活で自分に気が付き、自分の反応に気づき、自己自我を観察している

私のことです。


自分の思いや、動きや、自分の思考や感情に気づいて自分・自我を見ている私

、自分のことを判断し、評価し、逃避しようとしている私の事です。



では自分を観察して、自分を見ているこの私と、その観察している私によって

「見られて観察されている私」との関係はどうなっているのでしょうか?



観察され、見られている私と、その私を見て観察して、「なんとかしなくては」

「よくならなけければ」と思っている観察者の私の関係のことですが・・・



では、この私を見ている「観察者の私」とは誰でしょうか?


それは観照者ではないことは確かだと推測されます。


なぜなら自分を見ている観察者の私とは思考であり、心であり、分離していて、

対象である私の悲しみや恐怖や不安をけっして理解しようとしていないからです。



自分によって観察されている私と、その自分を観察している観察者の私とは、異

なっているのでしょうか?



私の心の中で「自我としての私」が知覚され認識されるのは、その自我を知覚して

いる私が「知覚されている私」と同じ波長であるからなのではありませんか?


自分の心の中でも「類は友を呼ぶ心の法則」が適用されると思います。


観察者という「自分の姿を対象として知覚している私」が、「観察されている私」

として、観察者自身が自己の姿を投影して見て、知覚しているようにもおもえます。


もし見ている私がより本質的な波動であるなら、その波動の私は、その根源的な

波動を知覚し認識しているように思えます。多分それは思考を超えていることでしょう。


ですから賢者が見ている世界は完全完璧な神の世界であることでしょう。


ミルダッドの言う「神の子である私を覆っている自己」と言うマインドが

自分自身のあるがままの姿を分離して知覚しており、「知覚対象の私」「観察される私

・自我」として、そのマインド・私自身が自分自身のことを見ているのではないかと推

測されます。



知覚認識しているこの私も、知覚され認識されている私も共に、それらの私は

肉体を生かし、生きており、心を生じさせ、行為を起こさしめている私ではないと

思われます。


私によって知覚されている私も、それらを知覚している私もマインドであり、マインド

の私であり、その私は「心なく、私なく、思考なく見ている私」ではないということで

ありましょう。