私・自我は私なのではない
『私は自我である』と思っているこの私とは、どの私なのであろうか?
それは意識的自己であり、この自己意識の座である「鏡である私」ではない。
しかしながら、このこと「私は私ではない」ということを「私ではない【私という人格
の私】」が言うことは、「私は私ではない」と言っている私がそこに措定されること
であり、すなわち人格の私が肯定されてしまうこととなってしまい、この人格の私が自らを
「私とは私ではない」というのは自己矛盾しており人格の私にはそれを言明することは
出来ないのである。従ってそれを言えるのは人格の私を観照している「鏡の私」なのである。
人格の私・・それは起こっている思考や感情や記憶や欲望を観察し反応している私であることだろう。
賢者の立場から言えばこの自己意識的私とは観照者ではなくて観察者であり
鏡の私ではなく鏡の私を詐称しているマインドである、と言うことだろう。
マインドが熟睡と夢見と覚醒の意識そのものなのであるから、鏡の意識はきっとその夢見・覚醒・
熟睡している自己私である意識を「観照している意識」なのであろう。
マインドを観照しているのが「鏡の意識」なのであろう。
私は私であり、私は自我であると実感し、私は肉体であり、私は他人ではないと実感して
いるのは起こっている人格・自我であるが、その人格・自我は「鏡の私」から離れている訳で
はない・・というのもその「鏡である私」という意識の座が実在していなければこの鏡を覆っ
ている人格の私、この意識的な私、自我の私も存在することが出来ないからである。
鏡に取り憑いているものであるこの私は、取り憑かれるものである鏡がなければ、そもそも
取り憑くことすらが出来ないわけであるからだ。
「私は自我です」「私は私です」「私は起こっている現象です」「私は起こっています」という
実感は、その起こっている私には妥当だが、
起こっている私ではなく、それを観照している私実在している「鏡である私」にとっては
そのような自己感覚はなく、賢者が口をそろえて言うように「私は在る」「I AM THAT 」
「私は分離しておらず全体である」という実感なのであろうか。
何故ならその「鏡である私」にとっては、その肉体と自己同一化している私とは起こっている
私でありその私とは、この実在している私ではないことをハッキリと実感し理解しているから
である・・・
しかしながら、かく言う久保栄治とは、現在の私がいまだ未発達で、既に在る「高次のエティ
ック体である永遠のパーソナリティー」と繋がっていない状態なので、これらのことは久保栄
治にとってはこれは未だ観念であり、記憶であり、考えに過ぎない・・私は目覚めていないのだ。
「現在の私」がこの「未知なる永遠のパーソナリティーである鏡の私」を覆い尽くしているのが
この複合構造である私達であり、これらの意識的自己が私という人格であり、この人格が死後
も生き続けているサイコノエティック体という自我体であり、この自己意識が「鏡という意識の座」
を覆っている限りは、本来の意識は顕現できないであるからだろう。
この自我体の久保栄治という人格が、自分とは本来の私ではないということをハッキリとそして
本当に実感し自覚したとき、本来の私の目覚めは近いのではなかろうか。そしてその時にはこ
の人格の私は本来の「鏡である私」に吸収されることだろうが・・久保栄治は未だその時ではない。
しっかりと私は肉体であり、私は他の人間ではないという実感があり、この実感が「鏡である私」
を覆い包んでいるからだ。
自我である現在の私は「鏡である私」を覆っている私であるので「鏡である私」のことに関しては
ただただ想像し、信仰して、信じるしかないことだろうが、この自我である私は「鏡である私」
という鏡に映っている私なので、それを逆に言えば、この未知なる鏡である私が実在しているので
「私は自分である」「私は万物ではない」「私は他人ではない」「私は肉体である」という錯覚する私
という自己意志を持っている人格が生じ、現象していることが出来ている。
この鏡を覆っている私自我とは未知なる鏡があるから自己意識していることが出来ている
のである。
①「私という自己意識とはこの鏡を覆っている起こっている思考に過ぎない」ということを考え
信じている者は信じているだけで実際に見ているわけではないのでそれをその様に想像
している・・・・それを考えている私とはそれは鏡の私ではなくて鏡を覆っている私であると
いうことだろう。
②「私という自己意識とはこの鏡を覆っている起こっている思考に過ぎない」ということを
信じたり考えたりしているのではなくて、実際にそれを見て理解して肌で実感している私とは
それは本当の私であり、それは「鏡である私」、永遠のパーソナリティーと繋がった現在の私
(現在のパーソナリティー)即ちサイコノエティック体から脱皮して本来既に在る高次のエティ
ックと繋がった私であることだろう。そしてその前提条件がこの「人格の私、自己意識の私」
の脱落であることだろう、そして身心の脱落が起こった後、脱落した身心が顕現するのであろう。