合わせ鏡
今日は近所にお住まいのXさんとまたお会いする機会があったので、「合わ
せ鏡」について話し合いました。
久保:おはようございます。今日は神道で祀られている鏡についてお話しで
きれば有り難いです。
Xさん:いわゆる合わせ鏡と表現されている私達の本質部分のことですかね
久保:通常の私達の現在意識とは、この鏡を覆ってしまっているマインド
若しくは自我・こころ・現在の私自身などといわれておりまして、
私達自身である鏡はこの「自己関心である私・自我」に覆われ包まれ
ているといわれています。
この自我とは自己自身即ち私だと意識している私の事でありまして、
会社で嫌がらせをされたので傷ついている私、また無視され侮辱さ
れて腹を立てている私,今まで何も病気などしたことがなかったのに
いきなり癌になって、何も考えられなくなってしまった私、などなどの
日常生活でのいろんな場面で反応している私のことであり、通常は私
・自我と呼ばれています。
合わせ鏡と言うことの教えとは
私達は、この「私、私自身、自分自身として意識しているこの私」が実は、
目の前にいる他人として、自分には認識されているということです。私の
姿が私の目の前のあなたとして、私には知覚認識されている事に気が
つきませんが実は目の前のあなたとはこの私の事です。
目の前に私が映し出されていることを合わせ鏡とよんでいるわけです。
鏡に映っている私とは「現在の私」が生み出した自我のことです。
それなのに、私はあいつは悪い、あいつが俺を欺したんだ等と言います。
私に対して嫌がらせをしたり、私を欺したり、裏切ったり、私を無視し
たりしているその目の前の相手の人が自分のあるがままを表してい
るということに私・自我は気がつかないで相手を非難するわけです。
というのも、この肉体に結合した現在の私とは目が未形成なので自
身を見る事が出来ず、また、自分自身を観照することが出来ないの
で、常に関係性の鏡を通じてでしか自己を知覚できないということ
であって、この私自己は関係性の鏡によって自分を発見するという
ことでしょうかね?この際の自分とは鏡自身の本来の私と、鏡よって
生み出された形成過程の私すなわち現在の私と、その現在の私が脳
と結合した結果、生じたエレメンタルの私という自我人格の私がある
と思うのです。
Xさん:私達である鏡とは、現在意識の基底にあって意識を成立せしめてい
るものであって、夢見と熟睡時の無意識と覚醒時の現在意識を成り
立たせているのであり、この鏡という超意識そのものである「意識の
根源」がなければ、その出来事に対して反応している私も無いわけ
で、このことから言えることは、この鏡である根源の意識とは鏡を覆っ
ているマインド自我意識即ち「私は肉体であり分離していると思っ
ている意識」さえもこの鏡がなければ存在出来ないのです。
ですからこの鏡からこれらの鏡を包み覆う自己と言う自我が生じた
のだともいえましょうか。
久保:それでこの現在意識である自己自我には鏡という本来の意識は意識
出来ないというわけですよね。
Xさん:私達を覆っているこの自己自我の現在意識ではこの鏡である本来の
私の事は理解することも知ることも出来ないので、この自己自我は
私達である鏡のことをああでもない、こうでもないと推理し、推測し、
思考や知識や観念でこの鏡についての概念を構築し、知ったつもりに
なってしまうのですが、これはこの鏡を覆っている思考やマインドの
枠内にある自己が構築した概念に過ぎず、それは全く鏡についての
誤解に他なりませんよね、
ラマナ・マハリシの「私は誰か」とは、思考・自我が考える推論結論で
はなくて、思考が終焉した状態でしか理解出来ないと言うことを知ら
ねばなりませんよね。自我という私を理解する為には自我を成り立た
せている鏡の意識に繋がる必要が有ると言うことですね。
久保:ということは現在意識であるこの私とは、この「鏡を覆っている私」の
事であり、この私が思っている思いや思想や感情や観念とは鏡自
身の意識ではなくて鏡を覆っている記憶の反応である意識だと言
うことですね
Xさん:勿論そうでしょうね、それでこの私達である鏡を覆っている私という自
我自己意識が、自己自身を直にハッキリと知ると言うことがとても重
要になってくると言うわけでしょう。そしてそれは鏡を覆っている自己
からではなく包まれている鏡からやってくるのでしょう。
久保:その正しい自己観察だけが自己からの解放をもたらすというわけで
すね。思考である私自身とは「鏡の私から見た場合」には私自身で
はないということを知ること、即ちその「思考である私」が思考であ
る自分自身を直に知り、その結果として思考自らが沈黙してくると
言うことでしょうか?
Xさん:そして、その正しい自己観察を通じて、自己からの解放即ち自己脱落
が起こりはじめて、自己からの自由、即ち思考や感情やマインドが鏡
から離れていき、その現在の私からの解放が起こったとき、本来の
鏡は、「すべてのものは分離していない。すべてのものは全体性で
あり、完全完璧であり、全ては愛そのものである」ということを見る
のでしょうね。但しこのことは思考であるこの私が見るのではなく、
その目の開眼とは鏡を通じて起こるものだと言われています。
久保:その霊魂である鏡の目には全てのものは分離しておらず、すべては
愛であり、完全完璧であるという実相が見えると同時に、この自我が
見ている内部と外部の世界とは実は仮象・現象であり実相ではない
ということがハッキリと理解されてくると言うことですかね
ここで言っている鏡の状態とは永遠のパーソナリティーと繋がって
いる「再形成途中の現在のパーソナリティー」の状態という意味で
すかね。
Xさん:ここで注意すべきは、久保栄治さんが言っていることは、未だ久保
栄治さんがそこまで到達していなのに話しているということです。
実際の久保栄治さんの意識レベルとは幽体や霊体も再形成されていな
いのです。現在の私は自我(エゴ)との混合状態そのものなのです。
喋ることに、しっかり注意して下さいね。さもあなたが理解しているこ
とのように話したり、見えているように、理解しているように聞こえる
ような話し方をしないようにくれぐれも注意して下さい。
真理については第一人称では話さないで下さいね。
あなたはまだ何も見えず、分かっておらず、知らないのだということです。
あなた自身のあるがままの姿を理解することがスタートなのですからね。
久保栄治さん、あなた自身の現段階とは自我がしっかりと根を張ってい
て、鏡を覆っている状態なのですから、あなたが考えることとは殆どが
目が覆われている鏡の状態での、考え・・即ちそれは自我の思考であり
観念であり、空想であり、実相を見ることも愛を見ることもあなたには
出来ません。しかし本当はその鏡のあなたこそあなたでありそのあな
たとは愛そのものなのです。
あなたの現在の鏡の状態がどのようなものであってもあなたは鏡な
のですが残念ながら今のあなたの状態は鏡が私という思考によって
覆い包まれているのです。
久保栄治さん!あなたにその思考やマインドである自我の反応がなく
なったときにその問題は話せるのです。
久保:正しい自己観察を通じて自己自身の脱落が起こるということ、・・・それが
一番重要なことでしょう、有り難うございました。
私達とは鏡であり、本質は鏡なのではあるけれども、人格の私、現在の私
、この意識的自己・私がその鏡を覆い尽くし包んでいるということでしょう。
その「鏡を覆っている私」の現実の姿とは、目の前の他人である合わせ鏡に映
っていて、それを通常では、この私達である「鏡を覆っている私」が目の前の人
を「あなた」と呼んで自分自身の姿ではないと思い込んでいますけれど、その
目の前の「あなた」こそが私自身の現実のあるがままの姿なのだと教えられ
ています。
このことは世間での「合わせ鏡」または「人の心は鏡なり己が姿を映してや
みん」という教えであります。
この鏡とは鏡を覆っている汚れや覆いの私ではなく
また、「自分は他人と異なっていると思っている思考・心・自我」のことではなく
て、自己・自我意識のない鏡なのですが、人格の私が鏡を覆っているので鏡の
意識は表面の意識には顕れておらず自己意識されていません。
この鏡とは?
これは神社で祀られている鏡と同じであり、私達は神社にお参りに行くとき
この鏡・・それは私達の本質にたいして礼拝しているのだと思います。
(しかしながら現在の所は、その鏡は包まれてしまっていて「エゴという私」に
覆われているのです)・・
私達は自然に、この本来の私=鏡に対して礼拝し、合掌しているのだと思われ
ます。
・・・この鏡という合わせ鏡が覆われて汚れてしまっている現状を綺麗にする
方法はないのでしょうか
・・それは、相手の鏡に映る自分自身のありのままの姿を直に見ることによっ
て、即ち関係性という鏡を通じてありのままの自分を直に見るということが、
自己超越の為の、そして自己変革の初めの、そして自己からの自由への第一
歩のスタートなのではないのか?と思うようになりました。
しかしながら、この自己を直に見るという作業は当然ながら攪乱と苦痛を伴
うことでしょう。
それは決して概念や知識や本やPCで自分とは何かについての真我の情
報を集めるということなのではなく、その自己についての情報を集めて記憶
している私自身の姿(マインドの自己自我の姿)をハッキリと観ることであり
、対人関係においては「私だと言っている私・自我自身の反応」を自我によ
る判断で歪めてしまっているということを、直に見ることでしょう。
現在意識の主体である私や夢の中の私とは「鏡を覆っている私」なのです。
それがこの現在意識の私なのです!しかしこの私は鏡である真の私では
ないと思います。この主体とは本当の主体ではないのです。
自分に関しての情報や知識を集める方法では自己を知ることもなく、自己
を見ることも出来ず、自己からの自由もないのだということを理解すること
が重要なのではありませんか?
自己を知る目とは決して現在意識であるこの自己自我にはありません。自
己について知っているのは私達を観照して暖かく見ておられる「未知なる私」
なのであり、決してこの思考である自己自我には自己自我を知ることは出
来ないとおもわれます、何故ならこの自己自我は思考であり、無知であり
記憶であり、その記憶の反応であり、そしてまたその「自他に分離している
と思っている地球規模のマインドの私」に他ならないからです。それらの思考の
私には目がないからにほかならないと思われるからです。エレメンタルの私
や記憶の私には目がないのであり、見ることが出来ません。条件付けられ
ている反応しか出来ないのです。条件付けられている記憶の私にはこの身
体の眼球と視神経を通じて知覚しているのみです。そしてさらに鏡を厚く
覆っている私がいます
それは地球規模の私という観念の私、潜在意識層の根本無知の私がいます。
それは私という観念であり、私という観念の私は本来は分離していないのに
無知故に自分は他と分離していて自分は肉体だと自らを錯覚している
のではないでしょうか?
ある「洞察」から・・
全ては起こっている・・
この私、この身体、この思考、この欲望、この生死、この自我とは結果に過ぎず
私とは起こっていることの結果なのではないか。
私とは起こっていることの結果に過ぎない。
出来事も行為も思考も生も死もそしてこの私も起こっている結果である。
従って私はこの私を生かし、そして生きておられる愛と生命である神に
心と知性と理性の曇りの無い状態で全てを捧げます。
神よ、内なる神よ、私自身を含め私のものはなにもありません
私は思いをつくし、理性と精神をつくし
あなたにすべての全てを全託します。
そして当然のことながら、現在の私には以下のように
言いたいのだが未だ言うことは出来ない
「真実は神以外になにものも存在していない。
真実は神以外のものはなにもない。
全ては神の中にあり全ては神である。
神を離れているものはなにもない。
肉体も、諸体も、肉体の脳も思考も感情も心もそして記憶である私も神の中にある。
私が生きているのではなくて神が私として生きておられる。
あなたが生きているのではなくて神があなたとして生きておられる。
生死は神の中にあり、神の中に起こっている。
善悪は神の中あり、神の中に起こっている。
全ては神の中にある。
全ての全ては神の中にあり、神のみが実在している。」