どう見えているのか・・テロの源流への考察
今日は昨日に続いて近所のXさんがおいでになったので、私達には外部と
内部がどう見えているのかと言うことについてお話ししました。
ペラペラと賢者の言葉をさも自分が見ていることのように話す人がいますが
見えていないのに見えているように話してしまう状態とは、その話している人
の話す内容とは単なる、その人の考えや信仰であって実際の状態とはその
話している内容とは異なっており、実際にはその様には真理が見えていない
のにかかわらず、単にその人が記憶していることに過ぎないことをその様
にペラペラとあたかも見えていることのように話すことの危険性についてお
話ししました。
これらの信仰の危険性について、宗教の危険性について話しました。
その危険性こそテロの原因・源流に成っていると思われるからです。
久保:先日お目にかかったときに、久保さんの目にはどう見えているのです
か? と私に聞かれたので、そのことについてもう少し詳しく話して
下さいませんか?
Xさん:それはですね、よく世間では賢者の本を読んで「行為は起こっている」
と書かれているのを読まれた方がですね、「行為は起こっているの
です」などとホームページで書かれているのを拝見し、それは嘘を
ついていることに本人が気が付いていない状態なのだ・・自己欺瞞
状態であり詐欺行為なのだ・・・と思うことがあります
久保:そうですよね、真理であってもそれを語る人によってはその真理が
虚偽となってしまうと言うことですよね
Xさん:確かに「行為は起こっている」とは真理でしょうが、それを語る人が
問題なのです。それを語っているその人が真理を実際にその様に
「見えている」場合には問題が有りません。何故ならそのそれを語っ
ている人はその真理が実際にそのように見えているのですから。
問題になるのはそれを実際には見ていないし、見えてもいないのに
自分の記憶から、嘘をつくことです。実際の見えている状態とは反対
のことを話しているからです
その「行為は起こっている」と本を読んで話している人は、実際には
「自分が行為している」と実感し、その様に見えているのにもかかわら
ず「行為は起きている」「神はすべてである」「神は愛なり」などと嘘を
ついているからです。真理をその人が話すことで真理が虚偽になる
のです。見えていないのに嘘をつくことで真理を貶めているのです。
久保:なるほど、では実際の知覚や認識として「誰も行為はしていない、行為
は起こっている」「思考者はいない、思考が起こっているだけだ」と見て
いる場合には問題がないわけですね。
Xさん:そうだとおもいます。その時実際の知覚や認識としてその様に「行為
者はいない、行為が起こっているだけだ」という目で見ているその人に
は、ラーマクリシュナのように全ての中に、またすべてに神を見ている
状態なのであり、その人のその見ている目とは肉眼や霊眼ではなくて
さらに超越している普遍の目であり、全体性の目で見ていると言うこ
とでしょうね。それはこの肉体の頭脳では想像すら出来ません。
永遠のパーソナリティーと現在の私(現在のパーソナリティー) との
繋がりが再形成されたのでしょうかね。その時には私とあなたの分
離がないことでしょうから・・。
久保:その時それを見ているその人とは最早、自我ではなくて、本来の人に
なっていると言うことでしょうか、即ち心や思考や私ではなくてその人
自身が全体性の意識になっていると言うことでしょうか?
Xさん:「立ち向かう人の心は鏡なり、おのが姿を移してやみん」ということでし
ょう。知覚とはまた認識とは、それは外部や対象として、内部である
自分自身を投影しているわけなのですから、
「あいつは嫌な奴だ、俺を侮辱している」「あの女を俺のものにしたい」
などという最低から、「自分のこの内面の葛藤の状態を何とかワークで
解消したい」と思って苦闘している人まで、全ては、自分自身の状態
を内部と外部に投影しており、なんとかそこから逃避したいと思ってい
る「私という観念」である状態、永遠のパーソナリティーと繋がる現在
の私(現在のパーソナリティー)が 私という観念に覆われている状態
の訳ですよね。
久保:その内部や外部に敵や味方や葛藤や欲望に苦しんでいる私自身が
いて、その様に自分と対象に分離している思考や感情や他者という
認識が残っている限りは決して正しく「行為は起こっている」と見るこ
とは出来ずに、絶えず自分に嘘をついていて害を垂れ流ししている
ことですね、自分を欺し、人も欺して悪臭や害悪を垂れ流していると
言うことに気が付いていないということですかね。
Xさん:実際に見ていることに対して、思っていることや考えていることや、信
じることや知識となどは全く異なっているということでしょう。
よく世の中で拝見することですけど、神への深い信仰で涙を流してい
る信仰深い人がいきなり一転して人々を平然と殺したり、戦争に協
力したり、テロに参加したりするわけです。それは自分が真理を見て
いないことに気が付いていないからなのではないでしょうか、記憶や
情報や知識では真理は誤解することは出来ても理解は出来ないの
だということを理解していないのです。
久保:よく分かりました。見ていることの中身、どのように見えているのかの
見えている状態こそがその人のレベル・状態そのものであり、その
人が対象として見えている相手の状態がその人自身の状態だと言
うことですよね。
自分によって観察されている自分自身の姿とは、それは自分自身で
あり、それは、マインド・私という観念であると言うことでしょうか?
自分が観察している自身のエゴの姿とは実は観察している私自身の
姿であり、それを観察しているのがその観察されている自我エゴで
ありそれは両方とも私という観念ではないだろうかということですね
元の話に戻りますけど
真理が見えておらず見てもいないのに、その様に単なる情報や知識
や考えや概念でもって信仰している信心深い信仰者の真理とは記憶
や情報であるのに、さも自分が見ていることのことのように嘘をつく
ことは、それは非常に危険であると言うことですね。
その人がもし真理を理解しているのなら、敵や味方の区別はなく、神
と人の区別はあるはずもありませんね
神以外に他人が見えている人たち、敵や味方が見えている人たちと
は従ってその人が信仰している状態とは真理の誤解であり、その真
理を見ていないのに見えているように自分自身を思い込むことは罪
悪であり、テロの源流になるということなのですね。
Xさん:お互いに嘘をつかないようしましょうね
久保:きょうは有り難うございました。