私とは心である




昨日、私の近所にお住まいの方と対話することがありましたので、紹介した

いと思います


久保:お元気ですか?その後お変わりございませんでしょうか?

Xさん:久保さんも毎日探求をしているようだが、どうだいその後、新しい
    発見はあったかい?

久保:私の方は相変わらず、心について、思考について、私について思考
    しているのですが、やはり気づきが訪れない限り、思考の中でぐるぐ
    ると巡ってばかりで、これと言った体験がないのですが・・・

Xさん:心についての思索はどうなっているかい、新しい発見があったかい?

久保:私は「あるがまま」を心が覆っている、または包んでいるのであると
    いう教えを研究していているんですが
    心が私達の目を覆ってしまっているので正しく見ることが出来なくな
    っていて、その結果、心が私達という窓、又は鏡を包んでその曇っ
    てしまっている鏡を覆う心の思いや実感のことを
    「心で覆われてしまった目」は
    心・マインド(私)を通してしか見ることが出来なくなってしまっている
    のではないか?
    私達が見ている知覚や認識内容とはその目を覆う心自身のものだ
    と思ったりしています
    またその心を見ているものも心でないのかと思ったりしています。

Xさん:そうなんだよ、実は僕も久保さんと同じようなことを考えていたんだが
    私達が見ている目とは実際には心によって覆われているので、その
    心の見ている世界・・それは内部でも、外部でも全く同じなのだが、
    私達が知覚認識している中身というは私達の目ではなくて、心のも
    のなんだよ
    私達である本当の目がこの三界世界に入ったので、即ち肉体に入
    って、頭脳と結びついたので、その頭脳という受信機に起こっている
    知覚や認識の内容や起こっている出来事即ち心を自分自身だと思
    い込んでいるんだよ
    その心である、私という自己意識、思考や感情や行為や出来事とは
    起こっているのである・・という感じは真実に近いのかも知れない。

久保:なるほど・・

Xさん:そしてその私達である目を包んでいる心とは、この個人個人のそれ
    ぞれの全ての脳に結合しているので、それぞれの人類の肉体で「私
    は個人であり、私は私であり、私はあなたとは別人だ」と知覚してい
    るわけだね・・

久保:ふ~ん

Xさん:その私達を覆う心とは実は個人個人で異なっているものではなくて
    地球全体で同一の私という観念なんだ。その私という観念が地球を
    とり巻いているわけだね。それは全員が私は他人とは別だとそう信
    じてしまっているというわけなんだ。

久保:それで昔の印度の賢者は心とは私という観念であるというようなことを
    言っていた訳か・・

Xさん:だから、現在の私達の意識とは、また知覚や認識とは、その私とい
    う観念である心の状態であり心の意識なんだ。
    しかしながら目である本当の私とは決して心や思考である私ではなく、
    他と分離している私ではないんだが眠ってしまっているんだよ。
    今のところは鏡はその心という私によって覆われてしまっているので、私
    達が見ている知覚や認識では内部も外部も全ては一つではないようにみ
    えているんだ、分離しているものはなにもないのに、全てが分離して
    いるように見えているんだね。全ては全体として一糸乱れずに運行して
    いるんだよ。何も分離していないからこそカルマがあると言うわけなんだ。

久保:なるほど、カルマもその様にカルマの基底には全体性があると言うことか

Xさん:現在意識とはその覆っている心の思い、考え、実感であって、その心
    の実感とは即ち私自身というものであり、私達の自分自身というその
    自分とは目ではなくて目を覆っている心なのであり、心が私・私・私と
    いう個別感や分離感のある私という実感をおこしているんだ。
    私達の現在の閉じられた意識では目を覆う心の意識が自分自身の
    まだ眠っている意識とごちゃ混ぜになっているんだ。
    というのも自分自身の意識がまだ眠っていて目覚めていないのだから
    仕方ないと言ったところかな
    空海は私達のその状態を眠っていると言ったのだが、キリストはその
    私達の状態を称して死人と更に厳しく言っているよね。

久保:そうか、それでKは私達の目を覚まそうとしてわざと著作の中でいつ
    も「見るものは見られるものである」「思考なく、心なく、私なくあるが
    ままをあるがままに見なさい」と言っていたのか・・・・
    実際のあるがままだと思っていたのは実際のあるがままではなくて
    目を覆う心が見ている内部と外部の世界であったわけですね
    私達が知覚しているこの世界とはあるがままを歪曲して見ているマ
    インドの内部と外部なのか・・だから自分と世界が分離しているように
    見えている訳なのか・・。
    現在では私と対象が分離しているように錯覚して見えているわけだし、
    私などが今見ている世界というのはこの心の見ている錯覚の状態で
    あるわけだね。これは心が映している映像なのか
    即ち見る者と、見られるものが分離していると、私はあなたではなく
    異なっている様に見えているんだね

Xさん:その心というマインドは実際には地球において一つなのに、自らが
    色々と個性ある個別の肉体に入ったので、自分はこの肉体なので
    あり、自分は他人と異なっているんだ、とその個性を持っている肉体
    やその頭脳の記憶から成り立っている人格と自分を一体化してしまい
    肉体の五感や記憶や知覚や認識を自分自身だとそのマインドという
    心は思い込んしまっているんだよ


久保:そのマインド・心自身の錯覚が私と言う実体感覚であり、自分が行為
    しているという行為者の感覚、自分が思考しているという思考者の
    感覚というわけなのか、その私達の状態を高度の知覚からみたら
    行為者はなく行為だけがある。又は私達はロボットだ、若しくは
    自己は幻想だ
    ・・・というわけか

Xさん:それでグルジェフは、その私達の状態のことを第四の意識という高
    度の意識から観照して「あなたたちは眠っている、行為は起こってい
    る、思考は起こっているのに、眠りこけているあなたたちはあなたた
    ちに起こっている行為や思考や出来事を自分が思考し行為している
    と錯覚している」と言ったわけだ
    私達が心と一体化している限りは思考や感情や心や行為や私や出
    来事とは起こっているのであり、私が起こしているのではないという
    こと、何故ならば自分が目覚めていないので思考や行為や意志す
    ることは出来ていないで、それは単に起こっている事柄に堕落して
    あると言うことだね

久保:これは世界中がひっくり返るほどの大変なことですよね

Xさん:そうなんだよ、実際は内世界も外世界も私達自身もその私という観
    念である心・マインドが迷っている状態であり、そのマインドが見て
    いる世界であり、人類が知覚している内部と外部とは、あるがまま
    の実体ではないんだ。あるがままとは何も分離していない一体性の
    完璧な愛の世界なんだ

久保:え!!それではこの世界は幻想だと言うんですか

Xさん:私はここから先は言えないよ、私自身が眠っており目が覚めていな
    いのだから言う資格もないし、言ったら嘘をついていることになって
    しまうからね
    思考や心や私を超えている真実の目とは、この目を覆い尽くしている
    心が脱落したときに、そこに初めから実在していた・・といわれている
    んだが、それはこのマインドが獲得したり至ったり、なったりすること
    ではなくて、マインドが脱落したときそこに初めから実在していたと言
    うことなんだ

久保:いや~僕には奥が深すぎてこれ以上ついて行けません

Xさん:僕もこれから仕事があるので今日はこれまでにしようね
    ただいえることは、自分が眠っている、自分は心なく見ていなのだと
    いうことを頭ではなく本当に歯痛の様に実感したとき、そこには雲と
    いう心が消え去り本来の青空が顕れてきているというということかも
    しれないね、それまでは思考も行為もそして私・自己意識も出来事も
    自分が目覚めていないので、ただ起こっているだけなんだよ

久保:難しすぎてよく分からないけど、理解出来るように勉強しておきます
    今日は有り難うございました。またよろしくお願いしますね。

Xさん:久保さんも頑張って探求して下さいね