これを書いている私とは誰でしょうか?
今、この文章を書いている私とはだれなのでしょうか?
おそらくこんな質問をする方は少ないと思いますが、久保栄治が理解して
いる範囲内でこの事を自分なりに推測してみました。
今これを書いている私自身とは何なのでしょうか?
それは勿論、真我ではなく、霊魂でもなく、永遠のパーソナリティーでもなく
未発達で未形成の霊的身体を持ち肉体に結合した現在のパーソナリティ
ーでありましょう・・そして
この現在の私(現在のパーソナリティー) は肉体に入ったゆえに、脳を媒体
にして受けとった「心」や出来事に対しての自らの反応の結果として自分自
身が生みだしている「想念形態」・「私というエレメンタル」という記憶体=人
格を自らと思い違いし、それらと混合している意識体であると思われます。
ここでよく一緒にしてしまう永遠のパーソナリティーと繋がっている現在の
パーソナリティー(未形成の私)と,この現在のパーソナリティーが生み出し
た「思考の記憶体」(思考体・感情体)であるエレメンタルの私を区別して
考えを進めていきたいと思います。
未形成の現在のパーソナリティーとは永遠のパーソナリティーと繋がって
いるのに反して、この人格の私・エレメンタルの私は現在のパーソナリテ
ィーの反応によって生じた記憶であり、その死後も継続している記憶体が
集合潜在意識を構成しているものでもあると言われております。
この現在の私(現在のパーソナリティー) と混合している私とは所謂人格
と呼ばれ、頭脳を媒介にして、環境や教育や現在のパーソナリティー自ら
の傾向や努力によって形成された今世での記憶体即ち人格であり、その
人格とは肉体の死後、幽界で一時期、現在の私(現在のパーソナリティー)
と一体化して過ごし、その後、幽界からの再誕時には現在の私(現在のパ
ーソナリティー)とは分離して地球の想念層の一部として潜在意識を構成
するワサナとして生き続け、
そして再び現在の私(現在のパーソナリティー)がプログラムされた肉体を
身に纏う時には、内奥の高次の存在によって決定された母親の胎児に再び
現在の私(現在のパーソナリティー) に引き寄せられ結合する「数珠の様
な私(ワサナ)」であると教えられています。
話が少しずれますが
良く世間では自分が幽体離脱したと称する方は多いのですが、殆どの場合
は、現在の私(現在のパーソナリティー) であるサイコノエティック体の状態
は「未発達で未形成の霊的身体」であるので肉体から離脱するべき幽体が形
成されておらず、従って幽体離脱とは不可能であり、推測するにおそらくは
その幽体離脱とは現在の私(現在のパーソナリティー) によって作り出され
た記憶体である「エレメンタルの私」が自身の潜在意識層と繋がっている状
態であるにもかかわらず、その潜在意識層の体験を幽体離脱と思い違いし
ているのではないかと思われます。それは正しくは幽体離脱ではないので、
死後の世界をあるがままを正しく見ることは不可能なことでしょう。何故なら
現在のパーソナリティーであるサイコノエティカル体の目が(知覚が)形成
されていないので幽界や霊界で正しく見ることが出来ない状態なのだと思
われます
何故なら正しく見ようにも見ることの出来る目が形成されていないのですか
ら今現在の現在の私(現在のパーソナリティー) が見ることは全てが思考
の記憶が見ている世界であり、人類の潜在意識層の内部と外部なのでは
ありませんか?
私・久保栄治は肉体に入って脳と結合したので肉体の目は機能しています
し、肉体の頭脳で受信されている思考や感情を自分自身であると錯覚して
います。そしてそれらに反応して想念形態(エレメンタル)を作り続けていま
す。またその受信機である脳もまた、条件付けられていて未発達なので自分
のレベルに応じた内容しか受信できず、自分自身を対象に投影して同じよ
うなレベルのものしか知覚・認識できていないことでしょう。
私が見ている内部や外部とは私のレベル以外のものは見ることも、知るこ
とも、思うことも、行うことも、推測することも、知覚もできないのだと思います。
これを逆に言えばこの私が見聞きしている内部世界と外部世界とは現在の
私自身の未発達なあるがままの姿なのではありませんか?
しかしながらこの人格というエレメンタルと一体化している現在の私は
その自分が知覚認識した「支配欲・独占欲・恐怖・不安・暴力」などを自分
ではなくて、この自身の姿を他者に投影してしまいます。自分の実際の姿を
他者に投影して、それは自分自身の本性であるのに「悪いのは相手だ」と
思い込んでしまっています。・・・・実際は自分の姿を他者に投影しているの
に・・・。
このように、この目を持たず巧妙な自我である支配欲・独占欲・恐怖・不安
・暴力そのものである人格の私・エレメンタル(私という想念)としっかりと一
体化してしまい、そして尚且つ条件付けられている頭脳に結合した現在の
私は、自分はこのエレメンタルの私だと自分自身を見誤っています。
では一体現在の私としてはどう生きるべきなのでありましょうか?
この現在の私(現在のパーソナリティー)と一体化している「エレメンタルの
私」という、私が生み出した「私である思考体感情体の人格の私」を非難
すること無く、逃避することなく、一体化することなく、言葉を使うことなく愛
情を持って直視するべきなのでありましょうか?
永遠のパーソナリティーと繋がる未形成の現在の私(現在のパーソナリテ
ィー) は現在では目が開いていないので、この素晴らしい肉体に入ったの
ですが思考の記憶の反応だけで、意識を使う事もできず、
「支配欲・独占欲・恐怖・不安・暴力」そのものである無明という私という
エレメンタル・想念形態=人格と完全に一体化してしまっています。
従って
現在の私(現在のパーソナリティー) の自己意識とはその一体化している
「支配欲・独占欲・恐怖・不安・暴力」そのものであり、その巧妙なエレメンタ
ルの自己・人格は現在の私(現在のパーソナリティー)を詐称し、自分自身
が本当の私であると思わせていますし現在の私(現在のパーソナリティー)
もその様に自分自身を思い込んでしまっていることでしょう。
非常に巧妙で演技の上手いこの私、エレメンタルの私は思考体感情体でも
あるので、現在の私はその私の事を自分自身であると思い込み、そして
そのエレメンタルの私を身に纏っている現在の私(現在のパーソナリティー)
はそのエレメンタルの反応である思考や感情や欲望を自分自身だと思い
込んでいますが、果たしてそうなのでしょうか?
神の宮である肉体に永遠のパーソナリティーと繋がっている状態で入り、そ
して脳と結合した現在の私(現在のパーソナリティー)は未形成で未発達な
為に目は閉じられたままであり、開いておらず、脳を媒介してやってくる「私
という観念」からの思考や感情と完全に一体化していているように思えます。
現在の私(現在のパーソナリティー) は悲しいかな眠り込んでいるために
私達の知覚と現在意識とはエレメンタルの意識なのではないでしょうか?
現在の私(現在のパーソナリティー)であるサイコノエティック体が形成されて
いないので永遠のパーソナリティーからの意識も伝わらず、幽体離脱したく
ても、またしようにもその幽体自身が無い状態なのですから・・・
自分は肉体ではない、自分は思考ではないと言うことを理解することが出来
ません。高等な意識や、超感覚もなく、万物との交流や、一体感もなく
自分自身を正しく思うことも、正しく見ることも、正しく行うことも出来ません。
現在の私(現在のパーソナリティー)は、このエレメンタルである思考体と感
情体という人格即ち私という観念に包まれていて、目を覚ますことも無く、
死後もそのエレメンタルである私という人格と一体化した状態で一時期、
幽界に滞在して、幽界での再誕の準備に入り、そして、再誕するときには
現在の私(現在のパーソナリティー)は今世での人格であるエレメンタルの
思考体や感情体と別れて未知である自分自身の永遠のパーソナリティーか
らのコーザル体に合体されると教えられております。
そして今度は新しい母親の胎内に準備された胎児にはこの人生で待ち受
けているプログラムとカルマがセットされ、前回の人格であった私、すなわち
憎悪と恐怖と支配欲に満たされた私(エレメンタル)に再び繋がると教えられて
おります。
そして即ち、母親の母胎の中でのプログラムされている胎児が待っている、
その胎児が誕生するその瞬間に、赤児が最初の吸う息と同時に、脳の中
枢に現在のパーソナリティーの私は結合されると教えられております。
ともかくも、この現在の私(現在のパーソナリティー)とは未だに目がなく、
意識も永遠のパーソナリティーとは未だ繋がっていないので正しく見るこ
とも出来ずにおります。
従って目が覚めない状態での現在のパーソナリティーとは
思うこと、考えること、願うこと、欲すること、そして、行うことも、見ることも
そして更に記憶するなどの全ての活動とは現在の私と一体化した過去の私
即ち巧妙なエレメンタルの自己(過去世から繋がっている人格の私)の活動
でありその意識であり
その意識の中身、内容とは悲しみと苦しみと恐怖と不安であり、常に競争し、
常に比較し、常に支配し、そして神になって独占しようとする根本無明・・即ち
「支配欲・独占欲・恐怖・不安・暴力」そのものであるに違いありません。
そして、その自我人格の私とは非常に巧妙である為、自分自身を正当化し、
また、自分自身を対象化して、自分自身を目の前の相手に投影して、
「目の前の相手とは自分である」のに、相手を非難し、相手を憎みます。
しかしながらその「私であるのに相手を非難して憎んでいるこの私」とは
このエレメンタルの私であり、またこの私とは自分自身を対象として観察
している観察者であるのに、私はそれらの観察されている自我ではないと
自らを正当化し思い込んでおります。
この現在のパーソナリティーは眠っているので、現在の意識では私が非難
している相手、私が憎んでいる相手とは、まさに私の現状の姿を顕し示して
いるのです。目の前の詐欺師は私の実際の姿なのです。目の前の金の亡
者は、実際の現況の私のすがたを顕しているのです。
現在の私(現在のパーソナリティー) である私が生み出したこのエレメンタ
ルの私、思考体感情体である記憶の人格・私とは、実際にはこの現在の私
(現在のパーソナリティー)に最大の責任があるのではないでしょうか?
人格の私とは現在のパーソナリティーの私なのです。
この人格の私は現在のパーソナリティーである私が生み出した記憶体なの
ですから。
この人格であるエレメンタルの私と一体化していて脳に繋がれている現在
の私(現在のパーソナリティー) は
この人格の私(エレメンタルの私)と一緒に自己観察を非難や逃避や一体
化をしない正しい方法で実践することが自分自身を浄化し、透明化する方
法なのであると教えられているのではありませんか?
正しい方法の自己観察が自己からの自由をもたらすと教えられております。
ですから最終的にこの現在の私(現在のパーソナリティー) が本来の私である
永遠のパーソナリティーと一体になって霊魂の意識そのものとなったときには
Kの言うように、私という観念によって現象している幻想の私は最早存在して
おらず
「行為者はいない行為があるだけだ」「思考者はいない思考が有るだけだ」
となり、また他の賢者のように「殺す者は殺されるものである」「欺す者は
欺されるものである」となり、「神が殺す者として演技しており、同時に神が
殺される者として演じている」ということなのかも知れません。
その究極の「霊魂の目」には私は存在しておらず、従って私という観念が
創造した自と他の分離がそこには無く、私という観念である現象という
マーヤは無く、思考もなく、行為も無く、他と分離した私も無く、神のみが
愛のみがあるということなのかもしれません
多分これこそが実相なのでありましょう。
神のみが在るのであり、他と分離している私は実在では無いのです。
※シャンカラは本来の私(永遠のパーソナリティー)を覆っている「私」と
いうコーシャ(鞘)を以下のように分類しています
①肉体:アンナマヤコーシャ
②エネルギー体・エーテル複体:プラーナマヤコーシャ
③思考体・感情体・記憶体・人格の私・ワサナ:マノマヤコーシャ
④形成途中の自我体・現在の私(現在のパーソナリティー) ・サイコノエテ
ィック体:ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ
⑤永遠の原子・原因体・歓喜体:アーナンダマヤコーシャ