私とは生きられている
今朝は私とは生きているのでなく、生かされているのだ、ということに関
する思索をしてみたので見て下されば有り難いです。
私が生きているのではなくて、私とは生きられているものであるのではないか?
私、個人、人格、意識的自己とは生きられているものなのではありませんか?
自分のものはなにもないのにもかかわらず、私達とは所有という概念を与
えられているので、通常の全人類は自分のものがしっかりとあって、自分が
生きているのだと錯覚しているだけなのではないか?
実際には肉体も頭脳も五感も知覚も認識も記憶も貸与されているのであり
自分のものではない。生命は勿論自分のものではないのだと思います。
本当は自分が生きているのではなくて、「全体性」が自分・私として生きて
おられるのではありませんか。
知覚も認識も意識も生死もそしてこの誕生し、死亡する個人人格である私
も起こっているのではないか。この私・自己・自己意識は起こっている現象
なのであろうと思われます。
私とは私が誕生させ生きているものではないからであると思います。
そのこの私を起こしている「全体性」が地球上の全ての人類の私として生
きておられるのではないか。「全体性」のみがあって、個別の私は本当は
存在していないのであると思います。
現象三界とは、この私も含めてその存在しているものすべては実在の演技
であるのはないでしょうか?
そしてこの私は演じられているものだからこそ、一生懸命正しく生きなければ
ならないと思います。自分とは幻想であることを、この幻想の私が覺知しなけ
ればならないのだと思われます。未知なる本来の私が顕現するためには、こ
の現在の私が脱落しなければならないのだと思われます。
肉体は私のものではない、生きておられる普遍なる「全体性」のものである。
脳は私のものではない、生きておられる普遍なる「全体性」のものである。
脳と繋がっている諸体の私とは私のものではない、いきておられる普遍な
る「全体性」のものであるのだと。
呼吸は私がしているのではない、呼吸をしているのはその生きておられる
大生命がしているのであり、呼吸は大生命のものでしょう。
私が生きているのではない、私を生かしている生きておられる方が生きて
いるのではありませんか。
私とは生きられているのであって、私が生きているのではないと思います。
私が生きていると言う錯覚は、その錯覚を生じさせている「生きておられる
方」の生み出した現象システムなのでありましょうか。
その生きておられる方が自分の欲望、自分の意志、自分の私という錯覚を
生み出し、実際には生きているのはその大生命であり、未知なる全体性で
あるにもかかわらず「私は私のもの」「私が生きている」と実感する私を生み
出し、その私を使って、私として生きておられる、生きられている私として、
その普遍にして愛である全体性が生きておられるのでありましょう。
個人・人格・意識的自己・私とは幻想。
私とは現象、錯覚、虚偽であり、実際には存在しておらず、私という観念が
聖なる鏡を覆っているということなのでありましょうか?
その私という錯覚を使って生きているのは大生命であり、思考を超越した
意識であり、この個人人格の私とはその分離できない大生命によって生き
られているのではないか。・・・と私は思います。
私はいないのである。
私とは生きられているのである。・・と。
私はマーヤ、私は非現実。私・個人・人格とは演じられている現象。
私とは生きておられる大生命によって生きられているのであると。
個人、この現実の私とは実際には存在しておらず、「全体性」が全
体性として生きているのではないか。この意識的自己、他と分離し
ていると実感する私とは、その生きておられる生命が生み出してい
る幻想なのでありましょうか。
即ち
私とは名付けられない大叡智、大生命、全体性が生きておられるところの
神聖なる演技、生きておられている現象なのではないかと思います。
その神聖なる神の現象がこの私であり、この私が「未知である本来の私」
を覆い隠していると言うことなのでしょうか?
実際に在るのは実在であり、全体性である大生命であり、無限の愛であり、
思考を超えた大叡智であり、全てのものはその内側にあるのはないかと推
測されます。
そしてここからは全くの推測なのですが・・
この幻想の私が脱落し、終焉したとき、必ずや始めから在った「本来の全体
性の愛である私」がそこに燦然と姿を顕しているのでありましょうか。