知覚しているのは誰か?
知覚している「私」がいる限りは、その知覚している「私」が残っている限り
は、その「私」が知覚している真理とは、その知覚している私には真理だと
思われて、最高の真理であると確信されていても、それは単なる言葉の陳
述であり、単に鸚鵡のように中身が空疎な言葉であり、情報であり、記憶に
過ぎず、その「私」が知る真理の中身とは全く以て真理ではないことだろう。
それは単なる思考に過ぎないことだろう。
これは最高の叡智だと思われ、その最高の叡智を知ったとしても、その
最高の叡智を知っている「私」がここにいる限りは、またその「私」が残って
いる限りは、その「私」が知っている最高の叡智とは決して最高の叡智では
ないことだろう。その叡智は単なる言葉であり、空疎な情報に過ぎないこと
だろう。思考が有る限りは、私が残っている限りは叡智を知ることは無い。
真理を知り、真理を体験し、全体性を知覚していても、それを知り、体験し
知覚している「私」がそこにいる限りは、それは真理でもなく、全体性でもな
いことだろう。
思うに多分、真理を知り、真理を体験し、全体性を知覚していることが起こ
っているのなら
そのとき、それを知覚し、認識し、記憶している「私」はそこにはいないのだ
ろう。ただ真理だけがあり、全体性だけがあるのだろう。
自他を分離し、目の前の人を私とは別人だと思い込んでいる「私」が残って
いる限りは、その「私」が見ている内部も外部も、その相手の人も、そして
この「私」が知る最高の叡智とは見ている自身である自我の状態であるこ
とだろう。万物と私を分離する「私」がいる限りは、その知識は思考の記憶
の反復に過ぎないことだろう。
「未知なる最高の至高の意識」のことを知り、知覚し、体験したとしても
「その未知なる至高の状態」を体験している「私」がいる限りはそれは至高
の叡智の体験ではなくて、「私・私という観念」によって投影されている自我
の状態であり自我の範疇に有る「私の観念」の範疇に過ぎないことだろう。
知覚をしている「私」や、、認識している「私」が残っていて、「私」という知
覚者や認識者という「分離している心=私」がいる限りは、その知覚や認
識とは単なる私という観念の範疇に有って、私という観念が生み出した幻
想であることだろう。
「全てよし」「行為は起こっている」という真理は言葉ではなくて、それを知り、
理解し、記憶している「私」が残っている限りは、その「全ては良し」「行為
は起こっている」と話す言葉とは、それを話す者の自我の状態を表していて、
悪臭を放ち、真理とは反対の状態を拡散しているに過ぎない。
その「全てよし」「行為は起こっている」とはそれを知覚し、体験する「私」が
いない状態を表現している言葉であり、知覚者、思考者、体験者が未だそ
こにいる限りは、その言葉を言うことは自己欺瞞であることだろう。
言葉や情報や記憶や観念での真理の理解とは誤解であることだろう。「私
」がいる限りは、即ち私という知覚者、私という認識者、私という体験者が
そこにいる限りはその知覚や体験は「私という観念」の状態を現しており
自我の領域にあり、決して全体性のあるがままの理解ではないことだろう。
これを逆に言えば真理の理解、全体性の理解が起こっているときには
それを体験する私、それを見ている私、それを知覚している私、それを
記憶している私はいない
ということだろう・・と思われる。
全体性が全体性を理解しているのであろうか。
ここから先は私には全くの未知なる領域で自分勝手の想像なのだが
この私という思考がないとき、私という観念が生み出した対立も争いも生死も
その全体性の中には存在しておらず、心が生み出した「私」から生じている
恐怖も競争も嫉妬も傲慢も悲しみも善も悪も怒りもそこにはないことだろう。
それらはこの私という観念が自分は肉体であり、自他は分離していると言
う錯覚から生じた迷妄なので、その私が存在していない目、自己が脱落し
ている目には無知、自我、自己関心から生じたそれらはそこには存在して
いない事だろう。
私が脱落している中には恐怖もなく、生も死もないことだろう、虚偽がないか
らであろう。そこには恐怖する私がいないので恐怖もないことだろう。恐れる
対象がないからだ。意識という全体性の中には敵もなく味方もない、自分と
相手の分離がないからだ。
その思考がないところには肉体を私だと思う私が存在しておらず生死を
超えている全体である意識が存在し、そこには動物たちの生存競争もなく
弱肉強食もなく全く私達には想像すら出来ない本来の世界が現出している
ことだろう。
その私・自己が脱落しているならば「世界が私」であり、全ては分離してお
らず、その全体性の目には完全調和と愛の世界が現出していることだろう。