この私は幻想



ミルダッドは言われます

この私は幻想、

神から分離したこの人格は、新しく開いた目の幻想

この幻想の自己は、実体がなく現実性もない。


それが生まれたのは、人間がこの自己の死を通じて、自ら本来の

自己、即ち神の自己を知るためである。


この幻想は外の目がくらまされ、内の目が輝かされるときには消える。



一見すると何が書いてあるのかさっぱり分からないことでもあるので

ここで私なりに考えているミルダッドのこの言葉についての推測を述べてみ

たいです。


ミルダッドの言うところの死すべき「この私」とは一体どの私の事でしょうか?


それはこれを書いている私のことであり、これを読んでいるあなたの事である

でしょう。夜ベッドに眠り、朝には目が覚め、朝食をとり、会社に行き、仕事を

して、家に戻り、家族の心配や色々な問題を抱えてその処理に追われる毎

日を過ごしている私であり、ミルダッドのことなど考える暇もなく忙しくしてい

て、時々、何か超知覚を獲ようとし真我に至ろうようとして瞑想したりしてい

る私の事でしょう。


それはまた

ここで言う「この私」とは普通に人生を送り、毎日テレビを見・・旅行をし・・年

をとって、遂には病に倒れ、死んでいき霊界でまた目が覚め、また違う肉体

に転生し、聖者の本を読んで影響されて「自分は自我ではない」「自分は存

在していない」「自分は行為していない」と自己欺瞞している私の事でしょう。


では、「新しく開いた目」というところの新しく開いた目の私とは何のことでし

ょうか?「新しく開いた目である私」の幻想とは何のことでしょう?

その「新しく開いた目である私」とはどの私の事でしょうか?

思うに

それは、今のところは眠っているような状態であり、肉体と深く接合し、その

肉体の脳に沸き起こり去来している思考や欲望、私という観念と全く同一

化しまったので、現在意識としては自分自身をほとんど意識することはない

のだけれども自身の内奥では神と繋がっている「神の子である私」であるこ

とでしょうか


即ちそれは

私達である人間のことでありましょうか。但し、ここで言う「人間である私」と

は、自他に分離していない神の子としての人間のことであるので、常識で

の人間という意味や概念を変更しなければならないということでしょう。


で、その「人間である私」とは実際には分離しておらず、一体であり、そして

全体でもあり、且つ個性をもっており、本来はすべてなるものであるのに現象

界に降りてきて「私という観念」に染まり、肉体や霊体を帯びた途端に、そ

の肉体や霊体を自分自身だと錯覚し、肉体に起こる思考感情欲望そして

行為と深く自己同一化してしまい、内部と外部を分割し、自分とあなたを

分離分割して、自分は万物と異なっているのだと錯覚してしまっている

・・・ということなのでありましょうか?


しかしながらこの「新しく開いた目」を覆っているところの「幻想である自己・私

」は強力且つ巨大であり、確固とした「私は私である」という実体感覚を持って

いて、肉体や五感や知覚や記憶や認識や思考や感情や行為や生命を自分

のものだと錯覚しており、その錯覚が更に常識となって世界を覆い尽くし包ん

でいるので、ミルダッドの言う「人間がこの自己の死を通じて、自ら本来の

自己即ち神の自己を知る」
という神なる自己のことは、知るすべもありません。


その目が覚めると言うことは全く以て簡単ではなく、時間からすれば数万回

の輪廻の時間を必要とする、想像を絶する超努力の結果として与えられる

恩寵であるのかもしれないと推測されます。



それには何より始めに、この本来の私である神の子の私を覆っている「私

という自己」が自らの実行する「自己観察」によって、この自己観察している

私・自己が実は本来の私ではないことをハッキリと自覚し知覚しなければ

ならないと言うことが大前提であると言うことでしょう。記憶であるエレメン

タルの私がいま現在のこの自分であることを知らなければなりません・・

聖者の真似をして「全てよし」と言っている私・・この私自身こそが「本来の

自分自身である目」を覆っているエレメンタルなのであることを・・。



眠ってしまっている神の子の私が目覚めるためには、この現在の自己が現

在の自己自身のことを正しく自己認識して「私は幻想の私であり、本来の私

ではない」、私は永遠のパーソナリティーに繋がっている「私」が私という観念

と同一化して、その結果生じたエレメンタルなのであり、決して自他に分離して

いない本来の私なのではないということを深く深く実感しなければならないの

だと思われます。


この私自我とはラーマクリシュナの言うように神が演じておられるのでしょ

うか?


神が私という観念を使って演じておられる演技を人間は身体に宿ったゆえ

にこの身体で演じられている演技を自分自身だと思い違いをしているという

ことなのでしょうか?


いずれにせよ正しく絶えまざる愛情を持って「自己観察」を行なった結果と

して、現在の私は徐々に力を失い、自己を失い始め、自己を喪失していく

度合いに応じて内なる本来の私、即ち「新しく開いた目の私」がゆっくりと目

を覚ましていく・・・と言うことなのでありましょうか?


そして、この正しい自己観察と自己想起を続けることによってミルダッドの

言うようにこの「現在の私」という幻想の私が脱落していき

「この幻想は外の目がくらまされ、内の目が輝かされるときには消える。」




ということになるのでありましょう。


残念ながらこの現在の私、この意識的な私とは決して真の私ではないので

あり、このままの現在の私とは決して真我ではなく、全くその逆に、この現在の

私が死んだときにこそ、そこに決して死ぬことのない元々在る私が姿を顕し

ているとミルダッドは言っているのでありましょう。