「見るものは見られるものである」の考察
「見るものは見られるものである」とは有名なクリシュナムルティーの言葉
ですが、この世界教師の超難解で理解不能な言葉を、令和元年の5月中
旬の現段階の幼い未熟な私の観点からあえて挑戦し推測してみました。
私達には概念と理論しかないのでそれで進むしかない訳ですが、「見るも
のは見られるものである」とは概念や理論では全く接近することが不能の
ことがらなのですが、あえて挑戦して見ようと思います。
では一体誰がそれを言っていて、それは何を示しているのでしょうか?
この言葉が出てくる意識とは
「実は神と私が別々に存在しているのではなくて、実際に存在しているの
は「神人」である」ということを理解している超高次の認識の段階の意識
であり、それはまったくもって通常の人類の意識の段階ではないと言う
ことです。
その「見るものは見られるものである」と言う言葉はその「神人」の高次意
識の観点からの言葉であって、「神人」の見ている実相なのであると推測
されます。
勿論ここで言う神とは全体性のことであって、世の中に溢れている「自分は
神である」と宣言して、人々を搾取する「私は神である」と思っている存在の
ことではありません。それらの神とは全く以て全体性ではなくて自分以外に
対象が有ると思っている段階の意識存在なのではありませんか?
ではこの「見るものは見られるものである」と言っている意識とは?そのよ
うに分割分離することなしに全体を知覚認識している意識とは何なのでし
ょうか?
物理学的に言えば素粒子そのものの意識であり、その素粒子を生む空間
そのものの意識だということ。
心理学的に言えば思考や言葉や観念という私達にお馴染みの心という質料
ではなくて、それらの心を超えている超意識そのものである意識、分割する
ことができない全体そのものの意識だということ。
医学的に言えば心臓を動かしている叡智そのものの意識、DNAや神経伝
達物質や血液を創造して、かくに如くに人体を生かし調和あらしめている生
命そのものであり、その生命それ自体の超意識であるということ。
霊的解剖学的に言えば私達の主体である現在の私(現在のパーソナリテ
ィー)のエネルギー体やサイコノエティック体そしてアーナンダマヤコーシャ
(原因体)の意識ですらなくてその「私自己という分離していると錯覚してい
る主体」をあらしめ生かしめているところの内奥の霊太陽・「霊」そのもの
の意識であるということ。
哲学的に言えば私達自己意識の知覚や認識とは主体と客体の分離から
成り立っているのだが、主体と客体、私と対象が統合されていて最早、わた
しとそれとの分離がない状態であり、その意識の中とは全ては一つであり、
私とあなたとの分離がなく、しかしながら、当然、その意識とは思考や心か
らは全く推測不可能な意識であり、それは心を超えている意識からの言葉
であると言うことであろうと思われます。
不二一元論哲学的に言えば通常私達は対象として内部と外部を見ている
、その「私」が消滅している段階の意識。私・自己がいる限りは正しく見るこ
とが出来ないので、その対象を持っている私が全く終焉している状態であ
る意識であり、それは思考が停止している状態の超意識であると言うこと。
宗教的に言えば父なる神そのものの意識、キリストの意識、仏陀・如来の
意識、アッラーそのものの意識、「空」そのものの意識であると言うことで
ありましょうか。その愛である意識からはすべてが完全完璧であり、愛す
るに値しないものは何もなく、私とあなたの区別はそこにはなく、分割でき
ない愛である私の中に宇宙が有ると言われている究極の意識だと言うこと。
天体物理学的に言えば宇宙を一秒の狂いもなく天体を運行あらしめ、万
物の全てをカルマという「完全なる愛」によって現象界をあらしめている
超意識。
存在論的に言えばすべての全てであり、全ての中に全てを包含し、全体
そのものである意識、遍在し時間と空間をあらしめている超意識というこ
とでありましょう。
しかしながら、
私達とは段階的発展を進んでいる心であり、この思考を超えている言葉を
思考で捉えてしまうので、誤解するしかあり得ないということでありましょう、
彼の言葉は情報として知識や言語では理解不能であり、伝達することは
中身を伴わない誤解に過ぎないということなのでしょう。
心である私には、自分が存在していて、そしてその自分によって内部や外
部として知覚認識される万物がある・・私やあなたは万物とは異なっている
・・・とその様に見ている主体である私がいてそして、それゆえに内世界や
外世界という観察対象があるのである、と当然そう実感しております。
客体即ち対象があるのは主体である私がいるからなのであると、そのよう
に実感し思い込んでおりますが、しかし実相とは全く逆であり、主体と客体は
分離しておらず、すべては全体でひとつであるのに、私が万物を観察してい
る主体であり、その主体によって見られている対象と私は異なるのだと思い
違いをしてしまっているのがこの私であり、心である私達であると言うこと
なのでしょうか。平たく印度哲学的に言えば「全ては神であり、神しかいない
のに、神以外に私や私と分離している対象が存在していると錯覚すること」
が「無知に汚染されている心」の状態であるということなのでしょうか。
ですからこの「分離している私」という意識を覆っている分離自己感覚が残
っている限りは、彼の言葉は全く理解されないと言うことでしょう。
即ち、クリシュナムルティーの見ている目、その「神人」の目には、思考や心
というものである「分離した私」は存在しておらず、超越されているので、彼
は「主体とは客体である」、「見るものは見られるものである」、「あなたと
はあなたが見ている対象ですよ」・・・と言っているのでありましょう。
・・・しかしながらこのクリシュナムルティーの言葉は頭脳や、死後も継続し
ている主体や輪廻転生している私という実体感覚の意識やそのレベルの
意識の観点からは全く理解されないことでしょう。
彼の言葉とは、それら内部世界と外部世界の万物をあらしめている基底
の素粒子、若しくは空間そのものの意識からの言葉ではないかと推測され
ます
私達通常の意識では、まず始めに自分とは見られている対象とは別に存
在していており、そして、その実在する私が世界を内側や外側として知覚
認識しているのだと・・その様に実感しています。生きているのはこの私
であると実感し誰もがそう思い込んでおります。
私達が対象とは別に実在していて、全ては見られている対象として、すな
わち自分以外の客体として知覚し認識されている実在だと実感していますが
実はそのそれらの内世界や外世界をその様に対象として実感して知覚して
いる主体である私とは、実際には「私という心」即ち全ての人に同じその濁
って無明という無知に覆われた心であり、その濁った心がその様に自分と
対象を分離して知覚認識してしまっているのだと言うことでありましょうか。
その「私という混濁した心」が、無知という分離に覆われてしまった為に、そ
の心というものは「見ている私は見られているものではない」という錯覚・分
離に落入り、見るものと見られるものは異なっていると思ってしまっているけ
れども、実際には「見るものは見られるものである」のですと、彼を通じてそ
の全体であり、普遍である至高の意識が語りかけているのではないか・・と
言うことなのではないかと思います
この至高の意識が言っていることとは
砕けた言い方をすれば「立ち向かう人の心は鏡である」「あなたの知覚認
識する嫌な人とはあなた自身なのです」「あなたの敵はあなた自身です」「
あなたが逃避しようとしている不安はあなたです」「あなたが思考している
のではなくてその思考があなたなのです」「あなたが知覚し認識している
目の前の人とはあなた自身を対象化して知覚認識しているのです、その
様に自他に分離して知覚しているあなたとは実は思考自身なのです」などと
言うことでありましょうか
「あなたを困らせているその相手の人とはあなた自身です」と言うことです・・
思考は自らを他者として、又対象として自らを知覚認識しているのですから・・
ということでありましょうか。
しかしながらいずれにせよ、この「見るものは見られるものである」をああでは
ないか、こうではないかと推測している私自身が主体と対象に分離している
心そのものであり、思考そのものであり、分離している私そのものなのです。
この私が言うことの全ては推測であって、盲人が象をなでて意見を言うこと
・・であり、これはこうである、あれはああであると全く誤解している「群盲象
をなでる」のと似ていることでしょう、何故ならば私は思考が停止していない
からです。
この私達の段階の思考という自己意識では「私が内側を観察しているのだ」、
「私が忌み嫌い非難している自我という悪魔は私ではないのだ」と思ってい
るし、「私が内世界を知覚し認識していて、私とは私が観察している内側世
界とは異なっている。私とは自己の観察者なのだ」、「私がこの世界を、私
の家族や、この社会を見ているのであってこの家族やこの社会や、この対
象世界は見ている私を現している鏡なのではない」と・・その様に実感して
しまっています。
また
「私は他人ではないし、私は目の前の介護されている老人ではない」し、「私
は交通事故で瀕死の状態の怪我人ではない」と、当然にそのように知覚し
ているのは、その知覚している思考や心や私が、その思考や心や私自身
の無知による知覚認識なのであり、間違って自他を分離して見ているのだ
とクリシュナムルティーは言っているように思われます。
本当は思考や心や私とは、それらの心から分離という無知が取り払われた
ならば、決して分離しておらず、私とはあなたであり、世界と分離している私
はおらず、内部と外部に分離している私はおらず、世界は一つであり、宇
宙は一つであり、主体と対象は一つなのである・・・
・・という真実の知覚が訪れることでしょう・・ということなのかも知れません。
それが「見るものは見られるものである」という言葉の示す内容なのかも知
れないと体験がない私は推測している次第です
・・・と、この無知に覆われている未熟な心である私は、浅薄ながら推測して
いる次第です。