生命の樹
私達は生命の樹であるといわれております
樹は根と枝と葉、若しくは花で成り立っているように
私達である私とは複層しており、このうちのどの私が私だと言うことは出来ないということでしょう
もし樹から枝を取り去れば、樹は樹ではなくなって樹とは呼ばれませんし、葉をとったら樹ではなくなり、根を取ったら樹全体が枯れ果ててしまうことでしょう。
私達は複層しているので、どの私を私だとしてその私だけを抽出してとり上げることは出来ないのではありませんか?
そういうことで私達とは根と枝と葉から成り立っているのであり、私達とは①「真の私」、②「現在の私」、③「私ではない嘘の私」から成り立っているとおもいます。
このことは、私達とは現象界にぽっかりと空いた窓のようでもあり、この窓を覆い尽くしているカーテンである「私という観念」と、窓枠が同一化して生み出した個人というエレメンタルが、自ら自身を知ることにより、脱落したとき、窓枠は透明となり大空の太陽である真の私を映し出す事でしょうか?
①「真の私」とは
現在の私にとっては未知なる私であり、根に相当している私の事であり、それは霊又は魂とも真我とも呼ばれていて、自他の分離がなく、形をもっておらず、愛自身又は神の子と呼ばれて、「空」とか遍在意識とかいわれ時間と空間に縛られていない超意識のこと。
現在の私やエレメンタルである「私ではない私」にとっては全く未知なる私であり、心や思考や情報や信仰や体験や経験又は言語や想念での伝達という方法では一切知ることは出来ない私。
現段階の現在の私(現在のパーソナリティー) には知覚されないし経験されず認識はされない私。
しかしながらこの私は根である私であり、この私なくしては、輪廻し、悲しみ、悩み、成長することもできないし、現在の私や「私ではない私」もこの真の私なくしては存在することは出来ないのだとおもわれます。
この私(空)なくして枝も葉もありえないということでしょうか。
②現在の私(現在のパーソナリティー)とは
この現在の私は上記の神の子の私と繋がっているけれども、未形成であり「可能性のある私」のこと。私という観念というカーテンに覆われている窓枠自体であろうか?
従って覆われてしまっている状態であり、この意識状態とは③の思考の記憶体という地球規模の潜在意識と一体化している状態にありますので通常の平均的人間の顕在意識とはこの「現在の私の意識」が目覚めている意識なのではなくて③の汎地球的な思考の記憶の反応にすぎないと言えましょうか。
従ってこれを書いている私も、読まれておられるあなたも現在の私が眠っているとしたら、この私やあなたの現在意識は現在の私(現在のパーソナリティー)
の自己意識ではなくて③の思考である記憶の反応に過ぎないと言うことになります。
このように、この未覚醒の状態のまま、霊界に移行してもこの「現在の私」は決して目覚めることなく
また転生して、この物質界で新たな男又は女、異なる人種や宗教の地域の肉体にうまれても、同じような状態でありましょうか。
現在の私が覚醒するとは、知覚が拡大していくことであり、肉体の目ではなく、諸体の目が開き、そして徐々に思考なき目、私なき目、分離なき全体なる愛の目が開眼すると言うことでしょうか?
今のところは現在の私は「種子の状態」であるのであり、樹全体からすれば枝に相当する部分の私のことでしょうか。しかしながら種子は種子でもそれは決して真の私でないわけではなく、③の「分離している私という観念」に覆われていても全体である神の子であるわけでしょう。ただ目覚めていないのでしょう。
この私はこの次の③の「記憶の反応の私」なのではなく、記憶と同一化してしまっている私のことであり、あるときは身体不自由な障害をもつ肉体に誕生することもあるだろうし、あるときは恵まれた環境で産まれた天才としてそういう才能有る肉体や頭脳に結合し誕生することもあるでしょう。
しかしながら殆んどの場合、その肉体や頭脳と同一化した現在の私は「私は天才だ」と傲慢になってしまうことでしょう。そしてその肉体の脳を自分の脳だと錯覚し、その脳が受信するマインドと同一化してしまうことでしょう
この現在の私とは肉体や「人類同じ構造だが特性を持っている脳」に幽体や霊体を伴って繋がった私であり、目覚めてはいなくても「内奥では①の未知なる私と繋がっているコーザル体の私」のことです。
但し、今のところは未だ目は開かれずに眠った状態のままなのです
このことを難しく「霊的解剖学的」な言い方をすれば永遠のパーソナリティーに繋がっている「原因体の私」がこの私であり、現在の私であるといえるのではありませんか。
多くの輪廻を重ねて徐々に再形成されていき、全体である私、①の未知なる私と一つになるであろう可能性のある私の事でありシャンカラの不二一元哲学では原因体(アーナンダマヤコーシャ)若しくは自我体(ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ)と呼ばれております。
ミルダッドによればこの私は最終的に成長を続けて、ついには①の私と合体する可能性を持ち・・
この私は『万物への意識を成長させ、あなたは自らの内にある万物の意志や万物の内にあるあなたの意志を意識出来るようになる』でしょう
といわれており、最終的には①の私と一体化する可能性のある私のこと。
しかしながら現況では現象界に投射されて私という観念に覆われてしまった結果、その「私という観念」を私であると思い、脳に去来する本能や潜在意識や思考や感情や記憶や行為と自己同一化してエレメンタルを生み出し、こんどは逆にそのエレメンタルの私に取り囲まれ、私ではない私を私と錯覚してしまっている私のこと。太陽を映す鏡であり、無限空間と繋がる窓枠であるということであろうか?
③私ではない私とは
ではこの私ではない私とはどんなわたしであるのでしょうか?
それは②である現在の私が自分自身だと錯覚してしまっている自己意識を持っている私のこと。
正しく行為しなさい、正しく思いなさい、正しく奉仕しなさいと教えられている「観念の私」「思考の記憶の私」「ロボットの私」のことではないでしょうか?
朝、目が覚めて、昼には会社に行き、そして夜には眠って夢を見ている私、即ち思考の記憶の反応に過ぎない私、自動機械であるロボットである私、現在意識の私の事。
自分が行為していると実感しているので賢者から正しく行為しなさいと教えられている「①や②の私を覆っている私」のこと。輝く太陽と繋がっている窓を覆っている私の事。
自分のことを個人や人格と信じて個別性ある存在と錯覚している汎地球的で人類で一つの潜在意識の私のこと。エレメンタルの私の事。
現在意識の殆どはこの現在の私ではないこの自動機械の私の自己意識であり、現在の私という②の私は眠ったような半覚醒状態で霊界で過ごし、
そして今度はその目を開かない状態のまま、再誕生して新たなる肉体と 結合してこの物質界で生活を続け、肉体の死後はそのまま霊界で過ごしているといわれている。
②の眠ってしまった私には「この私ではない私」が私・自分自身だと思われしまっている。
生命の樹からすれば葉の部分に相当しているのだとおもう。
しかしながらこの人格や個人と呼ばれている「記憶の私」でさえも生命の樹を構成している一部分であることを忘れることは出来ないでしょう。
肉体の死を恐れ、失敗と成功に一喜一憂する私とは肉体に入って頭脳と結合した、私という観念であり、②である現在の私はその様な思考である自分を私自身だと思い込んでしまっているのではありませんか。
従って、この私とは②である眠ったまま転生している私(コーザル体としての現在の私(現在のパーソナリティー))に憑依している思考の記憶である現在意識の私に他ならない。
この思考の記憶の反応であるロボットの私を更に詳しくすると
A:私という観念
(神聖なるマーヤ若しくは根本無明、根本自我などと呼ばれている)
サンスクリットではチッタ(心)アハンカーラ(私)と言われている根本的な「万物と分離していると思っている私」のこと。根本無知。現在の私(現在のパーソナリティー)
はこの私という観念と全く自己同一化してしまっている。
B:地球を取り巻いている「私という『他と分離している私』の潜在意識層の想念帯」、人類共通の私、上記の私という観念と②の現在のパーソナリティーが出逢って生み出されたエレメンタルの総計。
地球人類で同一であるけれどもその中身は「②の私の反応」によって生じた「分離している自己意識」即ち個人・人格という記憶の集合体である。
C:肉体と同じように、肉体の死後、霊界に於いて今度は物質界に転生する際に脱ぎ捨てられる幽体や霊体と呼ばれている記憶体のこと、思考体、感情体とも呼ばれている。
専門用語ではマノマーヤコーシャと呼ばれて霊界で滞在し最転生するサイクルに入った場合には、②の私から分離して潜在意識と合流するワサナやサムスカーラと呼ばれる記憶体の私の事。
Bを構成している個人・人格の記憶である意識。
永遠のパーソナリティーに繋がる「永遠の原子という原因体の私」にその今回の輪廻の成果(人格個人のエッセンス)は引き継がれ収納されて、潜在意識層に合流していく私。
即ち、肉体の死後、霊界から再転生する場合「潜在意識層」に沈潜していく名前を持った私。
今世における個人又は人格のこと。
D:神の宮である肉体やエネルギー体のこと。
この身体は完全完璧であり神によって生きそして消滅する。
神の身体。
E:エレメンタルの私
②の私によって生み出された私。万物と分離している私という記憶の体、即ち想念形態の私である。
この自己意識はエレメンタルの私とも呼ばれ、本質的には記憶の反応であり、起こっている思考や感情や行為や出来事に対して②の私によって生じた反応の記憶、条件行動している私のこと。
条件付けられている頭脳にキャッチされている衝動や欲望、思考や感情に対して反応する『②の私によって生じた記憶の反応』の私の事。
このエレメンタルの私は私と言う自己意識を持っているので現在の私(現在のパーソナリティー)はこの私ではない私の事を自分自身だと錯覚してしまう。記憶の反応の私からさらに出現したエレメンタルの事。
非常に複雑で読みづらく重複している部分もあると思いますが
以上の様に私は自己と言うものを分離することのできない複層構造の生命の樹として考えております。