毒草を抜き取るな
キリストは畑を前にして弟子に対しこのように話したという
よい種子が蒔かれたなら、刈り取りが出来る様になるまでは毒草も一緒に
育っていくことだろうが、それまでは毒草を抜き取ってはならない。
何故なら、その毒草と一緒に良い草も一緒に抜き取ってしまうことになるか
らだ・・と
その将来、実のなる良い草がたわわに実を付けて、刈り取りができるまで
に成長するまでは、それまではその毒草も一緒に生えさせなさい、芽の内
に刈り取ってしまうと、将来、その実のなる草も一緒にとり除いてしまうこと
になってしまうから・・・
という農夫のたとえ話をされたといわれている。
私達である現在の私(現在のパーソナリティー) がこの肉体の中で充分に
育って、実を結び、刈り取り(洗礼)が出来るようになるまでは、自我も一緒に
育ってしまうであろうが、私達がまだ芽の状態である時には畑から刈り取って
はいけない・・・と言うことである
さて
クリシュナムルティーの教えは非常に高度であり、前述の実を付けて刈り入れ
寸前の段階に達した方々に対して彼は語っているのであり、未だ雑草と一緒に
育っている私達である芽の段階の人類に対してではない・・ということを私達は
知っておくべきであろう。
彼は世界教師として刈りいれの準備の出来上がった状態の高度な現在のパー
ソナリティーに対して語りかけているのであって、その聞き手である私達がまだ
畑(心の内面で)の中で充分に育っていない状態であるならば、彼の教えは全く
理解出来ないことであろうし、また必ず自己流に誤解して彼の話を分かったと
錯覚してしまうことだろう。
自我も現在の私(現在のパーソナリティー) も充分に育って刈りいれ寸前の高度な
段階に達している方々に対して彼は語りかけているのであることを忘れてはいけない。
私自身も含めて私達はまだ畑の中で芽の状態であり、毒草も将来これから育ってい
くことであろう、良い草はまだ充分育っていないのであるから、これから私達の心の
中では自我も現在の私(現在のパーソナリティー)もワーク(正思・正行・全託・奉仕)
の中で一緒に成長していくことだろう。
この段階である私達人類は自分では既に成長していると思っていても、実際にはまだ
本物の恐怖に出会ったこともなく、まして内なる真実の私には全く出逢っておらないの
に「思考や観念で創作したエレメンタルにすぎない私」を真我だと錯覚している。私達
は実際にはいまだ自我まみれなのだ。
自分自身が実際には自我まみれの中で自分を欺き、彼の言った言葉を理解していると
思い込んで、自分は普通の人間とは違うのだ真理を知っているのだと誤解している。
私達は将来において実のなる可能性を持つ現在の私(現在のパーソナリティー)なので
あって、努力を否定できる段階に達するまでは超努力と厳しい研鑽を重ねていかなけ
ればならないことであろう。
ラマナ・マハリシ達の
行為は起こっている・・とそのように言える段階とは、たわわに実っている段階の人間であり
私達の段階ではない。「他者が他者として自分とは分離していると知覚している」段階では
決して彼の本を読んでそのように思い込んでしまうことは正しくないと言える・・何故ならそ
の段階に到達していないものがその様に思うことは現在の私(現在のパーソナリティー) の
成長をストップさせてしまうからである。
探求が必要ない段階まで到達したのなら探求は必要ないことであるし、思考の源に至った者は
思考を超えることが出来ることだろう、そして観念による行為なしにいきることができるだろう。
しかし、その実を結び刈り取られる段階に達していない私達には、正しい行いと、正しい思いが
絶対に欠かすことが出来ないのである。
それまでは心の中では実のなる良き草(現在の私)も毒草(エレメンタルの自我)も一緒に育って
いくことであろうから。