正しい自己観察



自己観察とは非常に難しく、奥が深く、またそのレベルも様々なので、現時点で分かっている自己
観察ということを自分なりに述べてみたい


と言うのも、間違った自己観察は、自分は自己観察をしているつもりでも、実は自我を対象として
思考で見てしまったり、思考でもって自己自我を凝視している場合には、その見られている自己自
我はいよいよ強大になり、ますます恐怖と不安が強まったり、増したりしてしまうので、そのように自
己観察をしているつもりでも、ちょっとでも間違った思考に依る自己観察をした場合、その害毒は計
り知れないことになるので正しい自己観察とは何かを調べて実践するようにしていきたいと思う。


正しい自己観察とは何か?それは賢者達が言っているように「思考なく見ること」「心なく見ること」
「私なく見ること」である。またそれは見ている私自分自身である心を正確に正しく見る事でもある
ので、非常に難しい。


現在の「言葉や言語」はこの「思考や心や私」の範囲内で成り立っており、その言葉という限界の中で
機能しているので、これらの言語や言葉や想念の範疇にない作業であるところの自己観察を実行す
ることは、現在の言語や言葉や想念ではない極度の鋭敏さが求められることだろうし、正確さが必
要となることだろう。



では
まともな『自己観察』とは(私が考えている)何か?



①思考なく見ること

 ★五感は思考ではないので五感を正しく用いて見ること
   ○最高峰の山頂に立っているように、焦点をどこかへ合わさずに、内と外の全てを俯瞰し鳥観すること
    具体的には友達と話しているときも、その友達だけではなくて窓の外に顔を出す鳥や部屋の隅々に
    まで留意し気を配って、自己自我の全ての動きに気づいていること
   ○ワインのソムリエのように、味と香りと色合いとその感じをしっかりと味わい、五感を鋭敏に働かすこと
    内部に起こっている味覚や嗅覚、感じている自分の感覚の変化に注意を注ぎ気づいていること 
   ○今まで知らずに味わい、感じ、聴いていたことを、音楽堂で名演奏家の奏でる音楽にしっかりと耳を傾け
    聴くように内部と外部で起こっている事に対して「焦点!を合わさず」、「言葉を使用しないで!」「黙って!」
    「お喋りしないで!」静かに、耳を傾け注意していること
   ○静かな風の優しいささやき、薔薇のほのかな甘い匂い、リラックスしている肉体のそれぞれの部位の感覚
    そしてそれらに対しての内側の沈黙している体内感覚、センターの中心感覚、気の流れ・・それらを感じ取
    るようにし、記憶を働かせないでこの内外の変化や動きに焦点を合わさずに留意し注意を払っていること
  ★思考の動きに気づいていること
   ○反省や自己叱責や自己批判は思考の最たる働きなので、決して自己自我を問い詰めたり非難したり
     反省を促したり、しかったり、罰を与えて良くしようとしないこと、その自己自我を非難している私こそ
     その自己自我である思考自身であることを知覚すること



②心なく見ること

  ★自己自我に対象を固定しないで全方向360度を鳥瞰し注意を全方向に巡らしていること
   ○心は絶えず焦点を合わすことによって、その焦点を合わせられた自己自我は益々強大化してしまうので
    山頂に立っているときのように自己自我を遠くの岩のように俯瞰し周りの空間と景色全般に意識を同時に
    向けること、全てに同時に気が付いていること
   ○心はすぐに頭脳にアクセスして過去の記憶からデータを引き出して判断し分類し結論を導き出そうとした
    りして過去や未来の心配をし始めるので、心の動きに自己同一化せず「いまここ」に静かに沈黙すること。
   ○同じく心は自分自身である自我自己を観察すると直ちに自己を非難し、自己から逃避して、改善しようと
    したり自己超克しようとして自己自我を強めてしまうので、自己自我をただただ静かに観照すること
   ○心は時間でもあるので、記憶データへアクセスしたり、未来を投影したり、過去を悔やみ悩んだり
    未来を案じて懊悩したりし始めるので、「いまここ」にしっかりと心を固定すること
   ○自己自我は「意識の窓」「意識の窓枠」にいつ顔を出すのか、分からないので、車を運転しているときも
    食事をしているときも、会議で意見を闘わしているときも、テレビを見ているときも、夫婦喧嘩や親子
    喧嘩をいているときにも警戒を緩めず、常に心なく怠りなく内側と外側を留意し注意を払っていなければ
    ならない 



③私なく見ること

  ★この自己観察はこの自己を観察している私を観察することなので、この観察者という観察している私
   自身を見る事。この観察者という中心点のある心を中心を持たずに空間のあらゆる所から見ること。
   ○私は「見ている目」を覆っている心であり、その私は必ず肉体の頭脳の眼やそのほかの諸体の眼
    と同一化しており、心はある固定した位置から自己観察を行っているので心に拠らない自己観察とは
    ある特定の場所から自己を見ることではなくて、あらゆる空間の位置から「心でもって自己観察」をし
    ている「心である自己自我」を観照するということである。
   ○私とは常になろう至ろうとしており、自己観察を通じて自己を否定し、「空」になろうとしている。私とは
    潜在意識層にアクセスして賢者達の記憶を読み取って真理ではないのに真理の知識を開陳したりする。 
    真の自己観察とはその私の動きに気が付き、心である私と自己同一化しないことで「空」に留まること
    である。
   ○ある一定の時間と場所を固定した目は心であり、その目による自己観察とは思考による自己観察と同
     様に見ている観察者という分離した実体=心を強めてしまい、その分離分割という範疇に取り込まれて
     「私はいつ到達するであろうか」「私はどうしたら自己実現するのだろう」というマインド・心に嵌まり
     「自己を否定することによって自己に到達しよう」とするこの強欲なマインドの餌食になってしまうので
     心の働きなしに、なることなしに静かに、静寂の中、言葉や感情や願望なしにただただ観照すること。