虚偽を虚偽とみること
賢者はこのように言っている
『虚偽を虚偽とみること、そして、虚偽の中に真理をみること、そして、真理を真理とみること』
『それゆえに虚偽を虚偽とみることが虚偽からの解放をもたらす』・・・と
ではその虚偽とは何であろうか?虚偽とは一体何のことか、その虚偽とは何なのであろうか?
虚偽とは「私はあなたではないとの実感」であるのではないか。
「私は全体であるのに個であるとおもうこと」であるのではないか。
虚偽とは
「私は私が見ている対象とは異なり分離していると思う」ことであり、「私はあなたと一つではな
い」と思うことであり、その思いそのものが嘘なのであり、その実感が虚偽であると言うことであると。
その虚偽が自分は対象と分離していると錯覚して、対象を対象として知覚しているのであると言うこと。
全体からは『対象は存在していない』ということだろう。主体と客体の分離が虚偽なのであろうか?
平たく言うと「私は見られている対象と異なっている」とのすべての人類に共通している実感が
嘘なのであるということか。この自分はあなたとは異なっている、分離していると思うことが虚偽
なのであり、嘘なのであるということなのだろうか。実際には私達は全く分離しておらず一体(神=
愛)なのであるということか。私達は個人ではなくて実際には全体であると言うことなのか?
この私は肉体であり、個人であるという実感とその思いが嘘であり虚偽であると言うことなのであ
ろうか?
もっと具体的にハッキリ言うと虚偽とは私の夫や妻そして私の子供や隣のおじさんやおばさん、
会社の同僚や私を嫌っているAさんや、私の友達、そして私のことを無視し苛めているBさんと
私が異なっていると思う事であり、実際には分離しているものは何もないのに私は全ての対象
と分離して異なっている、一体ではないと実感しているその実感が虚偽なのであるということだ。
私が対象として自分自身の自我を見ていると言うことがその虚偽の姿なのではないか?
「私は肉体である」「私は人格である」「私は進化している個人だ」との実感が虚偽なのであろう。
私達、私とあなたは同じ肉体、同じ頭、同じ遺伝子構造、同じ思考、同じような自我、同じこころ
同じ細胞、同じ血液、同じ神経、同じ感覚、同じ原子、同じ素粒子、そして同じ生命、同じく神。
私達は全く同じなのに私達は「私は他人ではない」「私は私だ」「私は肉体だ」「私は敵ではない」
とそう思うことが、それが虚偽だと言われているのである。そしてそこから出てくる色々な感情や
思考が想念が記憶が虚偽なのであるということであろうか。神以外に何かあるとの思いが虚偽
であると言うことなのであろうか?
『虚偽を虚偽と見なさい!』・・と私達は教えられている。
『私達は一つなのであり、決して分離していない!私は全体である!』これが虚偽を虚偽とみて
いる真理の状態であるということなのであろうか。
では虚偽を虚偽と見ると言うこととは、具体的には「私はあなたである」と言うことであり、私は
全てのものと一つであるということを見ると言うことであるといえる。
それは
私達は一体であり、全く分離しておらず、このいのちあるもの、また命のないすべてのものと
すべての動物や植物や物質と私はまったく一体であり全体である・・・と言うことなのであろう。
だから虚偽の中に真理(神)を見る事とは全てに神を見ることであるということ。私は全体である
と知覚すること。
・・・虚偽を虚偽と見るとは、実は全てに神である私を見ることなのであるということだろう。
私を殺すあなたの中に神を見ること、私の妻や夫の中に神を見ること。どんな人の中にも神を
みること、敵や味方の中に神を見ること、全ての動物や植物や鉱物や物質に神を見ること
・・・これが、虚偽の中に真理を見る事であると思う。
私がもし妻や夫の中に神を見ていないのであれば、それは虚偽を虚偽とみていないということ
であり、もし虚偽を虚偽とみているのであれば夫や妻や子供を神として愛し、帰依し、礼拝して
いることだろうから。
虚偽を虚偽と見ていることの中に真理は有り、その真理は「全体」であるということなのかも知
れない。