招待状は私が書いている






良いことも良くないことも、やってくること。
それらの起こっている出来事とは、実は以前に
私が招待状を送ったので、それらのお客がやってきているのではないだろうか?


起こっている出来事とは外側に起こることだけではなく、内部で起こる思考や感情や欲望や
衝動や観念や自己関心などもそれらは客人として私にやってきているのではないか?


それらのやってくるお客に出した私が書いた招待状とは、忘れているかも知れないが
ずっと昔の過去世に於いて「この人格ではない私という人格」の時に私が出したものなの
ではないか?


目の前に顕れる良い人も良くない人も、望ましいことも、望ましくないことも、
それは、私が以前に招待状を送ったのに違いないのである。
そして、それらの望ましいことも望ましくないことも私が書いた招待状の通りに私に訪れ
ているのだと言われている。


家庭内で暴力を振るう息子や夫も、家出してどうしようもなく荒れてしまった娘も、バレることは
ないだろうと隠れて浮気を重ねる夫や妻も、はたまた会社では私のことを無視し嫌がらせを
する悪意ある上司も部下も、それらは私が招いているのではないか?


いきなり訪れる不景気、ぱったり止まってしまった客足、会社の業績不振、思いもしない事故や
信頼していた友人の裏切り、そして親しい人との別れ、離反、取引停止や、失業や倒産等々
それらの成功と失敗。


そしてまた同じように内部に於いては

自分にささやく頭の中からの誘惑の声、自分の中で荒れ狂う嫉妬心、競争心、渦巻く欲望の嵐
人を見下す増上慢、利欲心、優しさの影に隠れている暴力、不安と心配そして恐れなど

後ろの車に追いつかれあおり運転をされて、ついカッとなり、怒り出し暴力的になり、やり返す私
、これらの日常では気が付かなかった内側に潜む悪魔のような殺意と欲望と衝動等々


これらの思考や感情や行為はいくら避けようとしていても正確に自分が過去に行ったとおりに
自分に起こる出来事として内部と外部にやってくるのではないだろうか?


それはブーメランのように自分が投げた行為や思考は自分にまた戻ってくるのである。・・とミルダ
ッドは言う。

憎むものは憎まれ、殺す者は殺され、軽蔑するものは軽蔑され、搾取するものは搾取され
愛を与えるものは愛を与えられ、騙すものは騙される。

今現在のそれらの目の前に起こっている内部と外部で起こっている事柄とは、自分が過去に
行った結果であり、以前に自分が発した思いや、行いの「そのとおり」を今度は自分が受けと
るのであるという。


望ましいものにせよ、望ましくないものにせよ、なんで、自分が与えたように今度は自分が
受けとることになるのかといえば、それは、私とあなたとは霊魂においては分離しておらず
一体で一つの実在であるからだということがその大前提になっているからなのであろう。
私達が「分離の二元現象界の私という観念」の中にいる限り、寸分の狂いもなく実行される
と言うことであろうか?




ここで久保栄治が自分自身だと考えている自分・私とは何なのかお伝えしたいと思います。
私自身いまだ良く理解していないのに専門的な言葉や聞き慣れない概念を多用しているの
で非常に分かり難いと思いますがよろしくお願い申し上げます・・。



私自身それは思うに
私は時間と空間を超越し、自他の分離のない「無限の愛である霊魂」の一部であり、
現象界に接点を持つ「永遠のパーソナリティー」と
繋がっている「永遠の原子(コーザル体)」が私だと
思っています

この「永遠の原子」が肉体に入って現在のパーソナリティーと呼ばれているのだと思います。

ただこの私である「永遠のパーソナリティーと繋がっている永遠の原子(コーザル体)」は
この現象界に初めて降りてきた途端に
「私という観念」に覆われ、
肉体や諸体に包まれて
自分が無限の愛と繋がっていることを忘れて、与えられている心や思考や自由意志を誤って用い
てしまいエレメンタル(反応として生み出された思考の記憶)を創りだし、今度はそのエレメ
ンタルが意志と意識を持って私・人格個人だと現在意識の中で名乗っているのではないで
しょうか?


その私という観念に同一化して、
「潜在意識である無数の過去から蓄積されている思考感情」
を自分自身だと思い違いしているのだと思います。
私達である「永遠の原子+現在のパーソナリティー」がその「潜在意識のエレメンタル」を自
分自身だと誤って思い込んでしまったのは、その「記憶というエレメンタル」が個人・人格の私
として生き続けているため、私達はそれらのエレメンタルの私を私自身だと思い込んだのだ
と言われております。



私達はこの「神の宮である肉体」でもなく、「起こっている心」でもなく、「エレメンタルの記憶で
ある個人や人格」でもなく、この私達を覆い尽くしている「神聖なマーヤである私という観念」でも
なく、私達は永遠のパーソナリティーと繋がり、肉体とエーテル複体と思考体と感情体を纏っ
ている未形成ではあるけれども「永遠の原子・コーザル体」だと思うに至りました。
・・・私自身が理解しているわけではなく理論で話しているので難しなってしまい申し訳ないです。


さて話は元に戻りますが


私達が書いた招待状に従って私達にやってきている客人に対してはそれらを決して拒むことなく、
親切に対応し、キリストの言うように「上着を盗る者には下着をも与えよ」「汝の敵を愛せよ」の
教えのように限りない愛をそのやってきているお客様に与えることが私達の勤めであるように
思われるのです。また愛とは思考という判断や評価や同一化や逃避をすることなく「ただ見ること」
でもあると思います。


何故なら私達の本源は愛であり、私達の内奥にある愛を与えれば与えるほどに内側から豊かに
溢れ出てくるからではないでしょうか