私は行為していないと錯覚する私
今日はラマナ・マハリシなどの本を読んで感動して誤解して、その気になってしまい・・
自分が自己欺瞞に陥っていることすらに気が付かなくなっている友人D氏のことを
話したいと思います。
この聖者達の「私は行為していない」ということがいえる主体とは、私という自己感覚が残
っている自我ではないということです、・・・それを言っているのは最早私達がよく知っている
私(他者を自分ではないと知覚認識している自己)ではないからです・・それは「生まれ変
わった私」「二度死んだ私」なのではないでしょうか。
この「自分が行為している」と実感している自我が完全に消滅している状態の「生まれ変
わった私」のみがそれを理解できて、その様に言うことが出来ると言うことでしょう。
「私は行為していないと実感しているその"私"」がいる限り・・その「私は行為していない」
という私の実感とは・・・・実は「私は行為している」という実感をしているのに「私は行為
していない」と嘘をついているのであり→自分が自分自身に嘘をついている・・と言うことに
気が付いていない自我の「自己欺瞞」の状態であると言えるのではないでしょうか。
これを自己欺瞞と言わずして何というのでしょう
もし本当に私は行為していないということの理解が起こっているなら、そこにはそれを理解
している私はいないことでしょうし、それを言う人の目には愛が溢れていることでしょうから。
その状態とは思考が停止している心の段階であり、即ち心の停止であり、心である私自
身の停止でもあり、そこには神聖なる目の状態・・即ち見ている私が停止して、「私がいない」
「私のいない見ること」「内奥の目」が顕現している・・・ということではないでしょうか
さて私の友人D氏は熱心なラマナ・マハリシ信奉者ですが、最近瞑想中に「行為は起こっている」
という悟りが下ってきて、それを実感した・・と私に謙虚に感慨深くそっと打ち明けてくれました
しかし、その後そのD氏と一緒に食事をする機会があり、D氏の話を聞き、彼の心の中を推察する
につれて、そのD氏の「私は行為していないという実感」とは単なる洗脳、思い込み、強烈な信仰
によって引き起こされている「自己イメージ」であり、それは「私は行為していない」という実際の高
次知覚のレベルではないということが判明しました。
・・というのもそのD氏の話からD氏が或る人から侮辱されたときのD氏の反応をお伺いした結果
とてもとても「私はいない」という状態の高次の意識状態ではなくて、その逆の自我丸出しの意識
レベルであり、自己関心に溢れていて
「私はこれこれの弟子が何人いる」「私のホームページは何人も読んでいる」とまた弟子の数を
盛んに誇っており、話の所々にチラチラ自我の影や自己関心の姿がちらついています。
D氏と会食して別れた後、私は彼が「私は行為していない」と信じているだけで、実際には
その境地には到達しておらず、彼自身は実際には「私は行為している」と実感しているのに、
彼自身が彼自身に嘘をついている・・・即ち彼は「自己欺瞞」状態である・・・彼がコンタクトした
のは賢者たちが話した記憶であり、情報であり、言葉に過ぎないものであり、実体としての
本物の高次意識そのものではないということに胸が痛みました。
もし彼に本当の「私は行為していない」との実感があるならば、そこには「行為している私を見て
いる私」=その行為の観察者はいない筈ですし、そこには私を伴う観察ではなくて大いなる歓喜を
伴っている愛そのものの「観照の目」「気づき」があるはずです。周りの人々を平和と幸福にせざ
るを得ないことでしょうから。
私が思うに本当の「私は行為していない」と言っている私とは内奥の私であり、それは
自己意識である自我体(現在のパーソナリティー)という自己の内にあるとされている原因体
(コーザル体)の私のことであり
この内奥の私と一体化している「現在の私」の状態であり、その時私達の記憶である思考体や感
情体は再形成されて高次の意識体へと変身しており
生まれ変わったその私は高次思考や高次感情を表しているはずだからと推測されます
分かりやすく言うならば「私は行為していない」といえるレベルとは、
自己関心である自我という心自体がその時、内奥に在る「観照している目」と一つになっていて
自他を分離せず見ており、(肉体の生まれ変わりではない)自我体の生まれ変わりがそこに実現し
ていると言うことでしょうか
肉体の自殺とは自我体が行う「殺人行為」であり、自分の肉体を殺しても、その殺人を犯している本人
が死ぬことはありませんし、ましてその自殺した本人は生き続けて生きているので、自らの意志では
「殺人行為」を冒した自らは死ぬことが出来ません
この自らの意志で死ぬことの出来ない私が、私を生かし、私をあらしめている「内奥の私」に吸収され
合体することが起こったときに・・即ち本当の意味での神聖なる「自分の死」が起こったときに、初めて
「私は行為していない」と自己欺瞞なしに言えるのであり、それが起こるまではその自己関心である私
は自らを愛に身を捧げ正しく意識的に行為しなければならないとおもうのです。