目を覆っている私・マインド



ダスカロスは著作の中で「私・・私・」と言っている私、即ち「私ではない私」が私を覆っ

ていると説明している。・・・久保栄治という未熟な私にもかかわらずこのことについて

思索してみたい。



その私ではない”私を覆っているところの「この私・・私・」”とは何のことだろうか?



それは自分が行為していると実感している私、自分が思考していると実感している私

自分は私だと実感している私、自分が自由意志を持っていると実感している私

この脳は自分の頭脳であり、この肉体は自分の肉体だと実感している私の事であろう。

これは即ちマインドである私の事だろうか?



しかしながらダスカロスの言うあなたという私とは、この現在のパーソナリティー

にとっては未知である私のことであり、本来の目のことであろうか、その本来の私であり

「本来の目である意識」を覆っているのがこの現在の私、即ち、現段階の於ける現在意識

の私であり、この現段階に於ける現在意識の私とは、即ち、「本来の私ではない私」で

あると彼は言っているように思われる。


現在のパーソナリティーにとっては本来の私とは「未知なる目」のことであり、未知なる普遍の

意識でもあるのだろうからして、私としては誤解を招かないように、この本来の私の事を本

来の目というように表現してみた方が誤解を招かないのではないかと思うのである。


勿論、ここでこうしてパソコンの前でキーをたたいているのは本来の目を覆っている私で

あることはあきらかで、又それは同じようにおそらくこの文章を読んでおられるあなたの現

在意識も現段階では私ではない「私・・私・」というマインドである現在の私・現在のパーソナ

リティー(記憶の反応)であることだろう。



私という主体ではないものが「私だ」と実感して目を覆い、その目を覆っているこの偽の主

体が転生を通じてそれぞれの人生において生き続け「真実の目」を覆っているということ

であろうか。



その真実の目の私からすれば肉体は私ではないし、頭脳も私ではないし、脳で送受信されて

いる思考や感情や感覚や記憶や知覚も私ではないことだろう。さらにもっとその真実の目の

意識が顕在意識として顕わになってくれば、心も私ではないし、この現在意識である現在のパ

ーソナリティーですらも「私だと私を名乗っているがその私は私ではない」。

とそのような意識状態になっていくのだろうか。




いずれにしても、外界と内界を自分とは異なる対象として知覚し認識し、自分は個人であり世

界ではない、私・自分が肉体の主として行為しているのだと実感している私とは私ではないこ

とだろう。


即ち、この私とは私ではないと言うことであり、聖賢が教えておられるように「思考なく、心なく、

私なく見ていないものは目である本来の私ではない」ということだろう。


もしそれが本来の目である意識であるならば「思考なく、心なく、私なく、あるがままをあるがま

まに見ている」だろうからである。



この本来の私、即ち「”自他に分離している私”なく慈悲の目で見ている私」が顕れたときとは、

即ち「私・・私・」と言っている思考、心、自他に分離した私が脱落したとき、そこにその目が姿

を顕していることだろう。



この本来の目からすれば、この現在のパーソナリティー(ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ?)で

すら「澄み渡った慈悲の目である私」ではなく、その本来の目である私を覆っているマインドで

あり、それはマインドの記憶の反応であり、この私は私ではないと言うことなのかも知れない。