鏡の意識
今日は鏡の意識について自分なりに思考してみた
①起こっている神聖なるマーヤである肉体連合体+その思考や行為
肉体及び頭脳を経由して"②の私によって知覚認識される"根源から起こっている
"マインド"。
通常はこのマインド・思考・感情・想念・行為は②の私によって受けとられているのだが
その受けとられている思考や感情や行為を受けとる側の②の私が「私という自己感覚」で
成り立っているため。その起こっている思考や感情・行為を私が思考し、行為しているの
だと②の人格の私は錯覚してしまう。
肉体や脳に生起している思考・感情・欲望・行為・記憶を②の私は肉体・脳と結合したの
で、それらを自分自身のものだと錯覚している。またこの起こっていることは②の人格
から見た場合、その人格の色眼鏡で見ている為に起こっていることを人格の私は「あ
るがまま」に見ることが出来ずに必然的に歪曲して解釈している。従って②の人格の
私はこの起こっている根源からのマインド、行為、出来事などの現象及び現象界を正
しく知覚し理解することは出来ない。②の私によって、起こっていることは全て歪曲して
受けとられる。ではその起こっていることとは
・起こっている出来事すべて万般
・起こっている肉体そして頭脳(思考体・感情体)
・起こっている頭脳の反応である欲望や行動や記憶
・起こっている脳の状態、身体の状態、才能や障害
・起こっている考え
・起こっている衝動
・起こっている行為
・起こっている思考・観念・思想などなど
②鏡を覆っているマインド・人格
起こっていることに反応する私
肉体連合体に受胎し結合した私
・上記のそれら起こっていることに対して反応しているのが肉体に入った自我である
私=マインドである。(正確に言えば①の肉体+連合機構体に結合した②である
永遠のパーソナリティーに繋がる未形成のサイコノエティック体+自我アハンカー
ラ・人格)
・この肉体に入り脳と結合した現在の私とは、肉体が個体なので自分も個体で他とは
分離している私だと思い込むことで人格を形成しているが、この人格とは地球で単
一のマインドを形成している一細胞であり、それは自他に分離していないのに「私
自己は他人ではない」と錯覚している。②の私とはその無知でありその無知に汚
染されている「心=人格・私」という二元性の意識であることだろう。
・この人格の私とは永遠のパーソナリティーに繋がる私ではなくて、神聖なるマーヤ
として「起こっている自己」「私と詐称する私」であり通常、人格の私はこの人格の私を
自己だと思い込んでいるがそれは「起こっている私」「神の演技」である私であって永
遠のパーソナリティーに繋がる私ではない。
・①も②も同じマインドであるが②のマインドは無知である分離二元性に汚染されている。
・上記の①のそれらの起こっていることに対して反応している「マインド人格の私+現在
の私(現在のパーソナリティー) 」の対応や態度、あり方が非常に重要である。という
のもこの特定の人格のあり方、行いは地球全体のマインドに影響を及ぼすから。
何故ならば、この特定の人格とは地球全体のマインドの一部であり、全体に影響
を及ぼすので、この特定の人格の態度、あり方、行い方、心の思いの内容には細
心の注意が必要である。
(※あるがままをあるがままに見ることそして起こっていること全てに対して全託、
受容、感謝が大切なのではないか)
・頭脳に沸き起こる上記の思考や感情や欲望に対して、この自我の私は判断し
反応し、良くなろうとし又は非難し、拒絶し、、逃避しよう、同一化しようとしている。
・このマインドの私がそれぞれの個体に結合したために同じマインドが異なる人格
を形成しているがそれは同一のマインドである。
・人格の私は通常は、眠ったような半覚醒状態で脳に起こる①の思考感情・欲望・記憶
を歪曲しこの人格の色眼鏡で受取ってそれらの記憶と自己同一化している。
・肉体に入って脳と身体に起こっている思考や感情や記憶や行為と同一化した私。
・この「人格の私のありのままの本当の姿」は「目の前の相手の人の姿」として自己認識
される。私が非難し、嫌いで馬鹿にしているその他人は自分の本当の現実の姿なの
である。
・この人格の私が終焉していたのなら、目の前の全ての人は神である本当の姿として
その「私が終焉した人格」の前に顕れ認識される。現象を成立させていたのは実
相なのであり、見ている私が終焉したときこの神の子の目には全ては神が見える。
・このマインド人格の意識状態とは夢見意識・覚醒意識・熟睡意識の三状態であり
この三状態の意識がこの人格である私・マインドの状態であるという。
・この人格の本質は自我というマインドであり、鏡を覆っている二元性であり、幾世
に渡って継続している私であり、地球の全人類で構成されている神聖なるマーヤ
である。
・この脳に起こりやってきている衝動や欲望や思考に対して、この継続している人格
の私は判断し、非難し、あるいは逃避し、あるいは一体化し、あるがままを観照しない。
・この人格の私は、常に自己にのみ関心があり、自己を拡大し、至ろう、成ろうとして
いる。
しかしながら恐怖・自尊心・悲哀・不安・暴力・自己関心がこの自我マインドの本質で
あり特徴である。
・この人格の私とは転生してる私・現在の私(現在のパーソナリティー) 又は形成途中の
サイコノエティック体とよばれている輪廻している私である。但し、前世の記憶は聖
なる恩寵により継続している現在の人格には思い出せないようになっているという。
・肉体の死後も継続するが霊界での再誕時には鏡・永遠のパーソナリティーのコーザ
ル体にエッセンスが収納され、人格は地球を覆う想念集合意識にワサナとして滞留
する。
・観照者ではなくて観察者と呼ばれている私。
・蛹から蝶へと変身するように、この人格であるサイコノエティック体は自己自身を脱
ぎ捨て(水の洗礼)て、より高次の私であり永遠のパーソナリティーの身体である高次
ノエティック体へと成長変身するという。肉体ではない人格の私が終焉することにより
未知なる私の誕生を迎えることが起こると言われている。
③鏡の意識・永遠のパーソナリティー
・この部分は久保栄治にとっては単なる推測であることを初めにお断りしておきます
・思考や心マインドそして私ではないところの自他に分離していない意識。
・人格の私にとっては未知なる私。
・人格の私とは自他に分離し、対象を持つ私=マインドであるが、この観照者の私、永遠の
パーソナリティーは思考や心や私ではない「気づき」「直覚」「理解」「超意識」などと呼称さ
れる。人類には未知なる思考を超えた、自他の分離のない高度の意識。心を超えている
意識である。
・熟睡を観ている意識であり、思考なくあるがままを見ている目である。
・この意識が覚醒した場合、熟睡時に於いて「熟睡している自己人格自我を観照している」意識が
自覚されるので、実在しているその超意識の存在は証明される。熟睡を観照している意識である。
・これは神道で鏡と言われている意識だが、現在はマインドである人格の私に覆われているので
人格の私はその意識を意識出来ず、人格にとっては顕在意識とはなっていない。
・この鏡という意識の座があるので人格という現在の私は存在することが出来ているし、根源からの
起こっている出来事や思考感情欲望が鏡によって起こることが出来るのだが、それを知覚している
②の記憶である人格が歪曲して受けてとっている。
・現在の私(現在のパーソナリティー) を観照している「目」、あるがままをあるがままに観照してい
る「目」、全てを受入れ、何かに至ろうとしたり何かに成ろうとしているマインドを観照している意識。
・大空の意識、仏教では空とも呼称される意識のこと。
・真我から現象界に投影された窓、スクリーン、鏡などと比喩で表現されている観照意識。
・起こっていることを「正しく理解することなく、間違った観点から巻き込まれ呻吟懊悩し、常になろうと
している現在の私」を不変の愛でもって見つめている意識。
・「熟睡、夢見、覚醒時の意識であるマインドの意識」を観照している観照者
・この鏡の奥に霊魂が実在すると言われているが、私は全く体験もなく、全く知らず理解していないので
説明できない。
・この鏡を覆っているマインドである人格の私が(そして大空を覆っている雲が晴れるように)身心が脱落
しない限りはこの鏡の意識は顕在意識化されないという。
・この鏡である永遠のパーソナリティーの身体が高次ノエティック体であり(高次チャクラ)
時間と空間に制約されず、自他に分離していない地球大の意識体と言われている。
④霊魂・霊自体の私
・時間空間の制約を受けないので私という現在の私のレベルでは全く理解も説明も不可能。
⑤真我
・全く理解不能。
⑥神我
・・・・・。