私という観念
今日は私という観念について考えてみた
全ての人に共通の「私という観念」は、この特定の肉体を自分だと思い、行為や知覚、感覚、記憶と同一化している
とそのように言われている、それは肉体だけではなく思考感情体と自己同一化したのだ
では特定の肉体を自分だと思っているその「私という観念」とは?何のことだろうか?
その私という観念とは、人種や性別や国籍を問わず全ての人の「私」のことであり、毎日、夢見て、目覚め、眠る私の事だ
それは死後、あの世に行き、そこでも同じように夢見の中で同じ事を繰り返し、又この世に戻って同じ事を繰り返している思考体
や感情体のことを自分だと思い込んでいる私のことであろう、それは諸体ではなくもっと根底にある個別的霊魂を包み覆い隠
している根本無明のことであろうか
・・・その「私という観念」が霊魂を包んでいるのだと・・
この「私という観念」とは自他のことを評価し判断しているもの、自己として意識しているもの、行為と知覚と記憶と情動を
観察しているもの、目的と動機をもち、常に何かに到達し、何かになろうとしている利己的なもののことであろう
またその「私という観念」とは、いつもそれ自身である自我の動きを観察している観察者のことでもあろう
この「私という観念」の最大の特徴とは主体と客体に「分離している意識・マインド」の事であるとも言われている
内部に於いても、外部に於いても、常に見る者、観察者として自己を分離して見、分割して見ている分離する主体
それは全ては分離していると見ているこの内部の深い心・マインドのことであろうか
自分自身を観察者、見る者とみなし、自らをも対象化し、自らを分離して観察している「私という観念」
その見ている者は、それは自分自身であるにも関わらず、その自分自身を対象の自分として認識している
・・・・というように思われる
実際には心が、マインドが、私という観念であり、自らを主体と客体に分離しているということなのであろうか?
主体と客体とは分離していないのに、対象と主体は分離していると見ている根本無明
内部と外部を分断し、自分は主体だと思い、自分とは対象と別ではないのに自分と対象とは別だと思っている・・・・
それゆえに、私という観念の最大の特徴は「無知」だということ、自分を知らないことなのかもしれない
それが根源的な非分離である霊魂を覆っている、包んでいると言われる
自分は見られているものと同一であるにもにも関わらず、自分は見ているものだと、自己を分割し
自分と対象とは分離している、自分は客体とは別の主体だと思っているものなのではないか、
それが「私という観念」=根本無明のことであろうか
それを逆に表現すれば見られている対象とは自分であるにも関わらず、自分は見る主体だと思っている
・・・そのマインドのことを不二一元論では「私という観念」と呼んでいるのだろう
見る者と見られるものという分離こそが、「私という観念」である根本無明・原罪のことなのかもしれない
覚者が言うには分離したり、分割できるものは何もなく、全ては分離していないのに、対象と主体とは分離していると見なし
その対象であるもの、それが自分であっても他人であっても、それを批評し、非難し、それから逃避しようとしている
それゆえに自分自身を対象化して自分自身を判断し、評価し、非難している・・・それは無明の働きである
同じように立ち向かう人の心とは、同じ心である自分自身であるのに、その心は他者の心だと対象化して見て
相手とはああだこうだと判断し、非難している、その判断し、非難している相手とは私自身であるのに
そしてそれは自らが肉体や諸体と同一化してしまったので、自分は他人とは異なっているのだ・・と
その様に錯覚しているのではないか?
観察されている対象、見られている対象・・・それが外部であれ内部であれ
・・・それがこの私であれ、もう一人のあなたという私であれ
私という観念は全てを分離し、分割し、自他を分離して見ている
見る者は見られるものとは一つではないと思っている
その私という観念は自らの本体に気がつくことがないように思われる
・・・その「私という観念」のことを賢者達は、心とかマインドと呼称するが、
その無知が、自らを「分離し」と「分割し」、魂を包み覆い隠している
それが私として輪廻を転生し続けている個別的霊魂を覆っている
・・・しかし賢者達はそれはマインドであり心であってけっして「本来の私・面目」ではない
その私という観念は本来存在していない無明・無知だと教えられているのではないか