意識と思考
通常私達は思考と意識を同じものだと考えているが
その考えとは思考であり、思考の思っている意識という概念なのである。
意識とは思考の根源でありベースであり
それは地球のあらゆるものが宇宙空間にあるのと同じだ。
思考が物質であるのに反して
意識とは空であり、無限であり、思考の網には捉えられないものである。
賢者達が意識と言うとき、その意識とは思考とはまったく異なった垂直次元の事を意味している
死後の世界も含めて私達が知覚し、認識しているのは水平の次元であり
その水平の次元を全て貫いているのが垂直次元、即ち意識であるといえる。
意識が存在しないとき思考は存在しえない。
思考とは物質であり、多くの階層、多くの段階、多くのレベル、多くの次元があるが
いずれにしてもその思考とは「私という観念」であり
思考は意識のことを類推し、意識とはこれだと思考するがそれは意識ではない。
意識とは思考にとって未知なるものであるから、思考では意識を知覚することも認識することもない
意識は思考を使って言葉でもって述べられることもあるが
思考にはその意識を知ることもなく、見る事も無く、認識することもない
意識は思考を見ることが出来るが
思考には意識を見る事も無く、思考することもできない、意識とは思考ではないからだ。
思考は物質であり、意識から生じているにもかかわらず、その質料は「自分&私という観念」であるので
「私」が思っている、「私」が思考していると必然的に思考するが、
それは実際には起こっている現象に他ならない
思考とは脳に起こり、キャッチされている現象なのである
如何なる次元の粗雑又は精妙な次元でもその段階に合わせた物質が意識から生起している。
思考とは意識から生じているものであるのだ。
従ってその物質が消滅したときその思考(私という自己)も消滅する。
記憶も物質であり各段階、各次元の記憶であってもそれは物質という質量なので
その段階に応じてその次元の質量が消滅したとき記憶・私も消滅することだろう。
私達は物質であり、記憶であり、その記憶の反応なのだが
この物質も、記憶も、その記憶の反応も意識から生じていることを思考は知らない。
意識とは、未知なるものであり、時間を超越している永遠であり、
その意識の特徴である「今」を思考には認識できないが
しかし時々、ある個体を通じ、その特定の脳を通じて意識が姿を現すことがある
それが賢者達であり、賢者達の聖なる言葉であり、教えなのだが
私達・思考はそれを知ることはないので、間違って翻訳してしまうことになる
キリストの教えは思考には知られることはないからなのである。
賢者達の言葉によると
意識とは時間と空間を超越し、遍在しており、空とも、空間とも表現され
ある時は全体性等とも、アザーネスなどとも表現されるが
いずれにしても
その意識があるがゆえにこの思考は生じており
意識・空があるがゆえに宇宙は存在していることができるのだ
この意識に生じている物質・思考が私なのだ
日本語はこの点が非常に曖昧なので
サンスクリット語に比べて、概念が曖昧になってしまうが
いずれにせよ
この意識から見たとき
私は行為していらず、あなたも行為しておらず、誰も行為していない
私はおらず、あなたもいない、誰もいない、意識だけがある
通常私達は自分が考え、他人が考えていると知覚認識するが
私は思考しておらず、そこには思考が生じているので
「私が思考している」「あなたが思考している」という錯覚が生じている
ということなのだ
またその未知なる意識から見たとき
善もなく、悪もなく、誕生もなく、死ぬこともなく
私もおらず、貴方もいない、ただ在るもの実在だけが在るといわれる
又その未知なる意識から見たとき
全ては神であり、全てが完全完璧とみえる
なぜならその未知なる意識とは主体と客体に分離しておらす
「見るものは見られるものである」であり
「観察者は観察されるものである」だからだ
思考には世界の善と悪、殺すものと殺されるものがあるが
意識は自他の分離、主体と客体の分離がないので完全完璧なのだ
この意識が或る特定の個体に生じることを悟りというのであり
思考(私)が悟るのではない
この在る個体の意識の座である脳にその未知なる意識が生じたとき
それが悟りであり
それが賢者達のいう意識なのだ