心臓の結節





今日は「心臓の結節」若しくはパイプの詰まりについて思考してみたい

私達の現在のパーソナリティーの意識とは私達のハートにある「心臓の結節」が溶かれていないため

より高次諸体の自己意識との繋がりが乏しく、その高次の意識は殆ど現在意識の表面に流れてきていないという


この「心臓の結節」が溶かされていない状態では高次諸体と「現在のパーソナリティーの自己意識」は

殆ど繋がっておらず、賢者達の言葉も単なる記憶の反復に留まっているに過ぎないこととなる

この結節が溶かされていない状態では、賢者達の言葉は理解されるのではなくて必ず誤解されるのである

それは思考によっては「思考ではない意識」を理解できないからである



ラーマクリシュナやラマナ・マハリシと言ったアドヴァイタの方々が言うところの「行為は起きている」

「私は行為していない」という言葉、それは「賢者達の現在のパーソナリティーの自己意識」と

高次の意識が「心臓の結節」が溶かされ諸体が透明化しているために、統合しておりその結果

そのような実際の直覚及び高次感覚が生じているのであって

私達の「心臓の結節」が溶かされていない状態の自己意識では「行為や思考は起きている」と言う実感ではなくて

「自分は行為している」、「自分が思考し、自分が意識している」と実感している状態である、

その状態のまま「私は行為していない」、「行為は起こっている」と言明することは最大の自己欺瞞となってしまうことだろう


この「心臓の結節」が溶かれていない状態の自己意識、即ち、高次の諸体の意識と繋がっていない

自己意識状態に於いては、正に「行為は私が為している」、「思考は私が思考している」と実感しているのであり、

その意識段階では仏陀の八正道、が最も効果的にその「心臓の結節」を溶かす手段であろうか



何故なら「私は肉体ではない」といくら叫んでも、超感覚が発生していない限りは五感が未だ実感されているからである

実際の痛みや苦しみが感じられており、賢者のように腕を切られても肉体の痛覚は感じていない状態ではない

この「心臓の結節」がある状態では、正しく思考し、正しく行うことが求められる

虚構の「自由意志」がそこにはあるから、正しい思考、正しい行為、正しいあり方が求められるのである


この「心臓の結節」が溶かされたときにこそ、始めて高次諸体とのパイプの詰まりが解かれて「行為は起きている」

と宣言する、より高次の現在意識とこの現在の意識は統合したのであって、それ以前に「私は行為していない」

「私はあるがままを見ている」と言うことは自己欺瞞であり虚偽である


この「心臓の結節」が溶かれて高次の諸体の自己意識と現在のパーソナリティーの自己意識が繋がった

状態の証明は「通常の五感」ではなくて、高次の身体の持つ超感覚が表れているかどうかで判明されることだろう


それは即ち通常の五感や思考ではない、時間の経過を経ない一瞬の理解があり、万物との共感があり、

「理解」があり、「思考なくみること」があることだろう


私には未だ「心臓の結節」が溶かれていないので、その超感覚や理解、直覚、万物との共感はないので

この高次の自己意識を述べることは出来ないし「行為は起こっている」と言うことは出来ない


この万物との一体感や共感、理解や直覚という

より高次の意識体との繋がりが起こったとき、即ち「心臓の結節」が解けたときに始めて

「行為は起こっている」「思考は起こっている」と言うことが出来るのだろう、

何故ならそのとき、それを宣言している主体は

より高次の諸体の意識と繋がった現在のパーソナリティーであり、条件付けが解除されている頭脳であり、

三体が繋がって透明になっている状態なのであろうからである

それが宇宙の友人達の仲間入りをする準備段階に入ったということだ



※ここでいう自己意識とは現在の私達の段階での自己とは肉体や思考や感情を指しているに反して
高次の諸体の自己意識の私とは「私は世界である」「私はそれである」というところの分離していない私
自己意識なので、同じ自己意識という標記をしていても意識の内容が全く異なる事に留意して下さい