一緒にいて耳を傾けよう
避けたり離れたりしないで共に一緒にいてじっと耳を傾けよう
非難したり判断したりしないで一緒にいて抱きしめよう
自我の言うことに耳を傾け、自我を抱きしめよう
起きている行為とその行為に対する自我の反応を何の言葉を使わず凝視しよう
起こる事、起きている事を、ただただ見て、耳を傾けよう
自我であり私であり思考であり「見る観察者である私」である心を凝視しよう
何をしようかと思い煩わなくても出来事や行為や私・自我や心は起こるように起こるからだと
起こるようになっている以外には何事も起こらず何も為されないからだと
起こっていることに対する「自分の反応」に対して判断や非難をせずにじっと耳を傾けなさいと
起こっている恐怖や快楽や嫉妬心や暴力心やイライラと共にいて、それにじっと耳を傾けなさいと
起こっているどんな出来事に対しても判断や非難や同一化をせずにじっと抱きしめなさいと
起こってくる生と死そしてそれに対してのマインドの反応を
成功と失敗、健康と病気を抱きしめなさいと
才能と才能がないこと、失敗と成功とを抱きしめなさいと
起こっている良いことと、良くない事、
起きてほしいことと起きてほしくないことの両方を抱きしめなさいと
起こっている思考と感情を抱きしめなさい、その思考と感情に対する自己の反応に耳を傾けなさいと
起こっている行為とその行為の反応をただただ判断せず見なさい、
それらと一緒にいなさい耳を傾けなさいと
・・・これらの賢者達の教えは明瞭であって
起こっていることにたいして、それらと共にいてそれを抱きしめ耳を傾け愛しなさいと言うのである
「あるがままをあるがままに見よ」と教えられているのだ
では起こっていることとは何だろうか
それは私自身であり、思考であり、心であり、私(ヴィジュニヤーナマヤ・コーシャ)であり、
運命であり、出会いであり、生死であり、別れであり人生のすべてであろう
外部と内部を問わず
肉体と諸体を含め、すべては起こっており、それに対しての私の反応も起こっている
賢者はその起こっていることに対して判断せず、愛情を注ぎ、どこにも行かずに一緒にじっと抱きしめなさい
と言うのである
行為は起こっている、そしてその行為に対する反応も起こっていると
想念は起こっている、そしてその想念に対する反応も起こっていると
私は起こっている、そしてその私に対する反応も起こっていると
出来事は起こっており、その出来事に対する反応も起こっていると
亡霊が来ることも起こっており、その亡霊が去ることも起こっていると、
憑依されることやそして浄霊され除霊されることも起こっていると
未来は起きるのであり、その未来が予測されることも起こっていると
計画し何かをしようとすることも起こっており、その計画が成功若しくは挫折してしまうことも起こっていると
友人が裏切ることも起こっており、その裏切りに対して自分がどう反応するのかも起こっていると
自由意志でどこに行くかも起こっており、その自由意志を私のように疑うことも起こっていると
人を好きになったり嫌いになったりすることも起こっており、結婚も離婚も起こるように起こると
自我は起こっており、その自我に対する自我の反応も起こるように起こると
心は起こっており、その心に対する反応も起こるように起こると
ふと頭をかすめる思いも起こるように起こっており、その思いに対する自我の反応も起こるように起こっていると
騙されるこも騙すことも、搾取されることも搾取することも、好きになることも嫌いになることも
起こる様に起こっていると
隣に誰が座ってどのように考えるかも起こっておりそこで何を話すかも起こっていると
生も死も、病気も健康も、災難や幸運や宝くじが当たることも外れることも起こるように起こると
それらの内部と外部のすべての行為は起こるように起きており、その行為に対する反応などの
思考や感情や喜怒哀楽に対する反応も起こるように起こっていると
それで賢者達は
それらの起こっている内部と外部の出来事を、あるがままに見よと教えられているのである、
行為や出来事や思考や感情や運命やカルマは自我がこの肉体や諸体に入った以上は決まったように
起こるように起きており、それに対する反応や行為も(内面も含めて)起きているのだという
そして肉体や諸体に入った私自我も起きているように起きているのだと
であるから
私達はその起きている事をにたいして非難や同一化や判断を交えずに、内部と外部を凝視せよと
ただただ耳を傾け、一緒にいて、抱きしめ、それらの言うことに耳を傾けなさいというのである
恐怖や嫉妬心そして増上慢や不安やイライラや怒りや非難や軽蔑や暴力をじっと抱きしめ共にいて
かれの言うことに胸を開きなさいというのである
何を話そうか、何を為そうか、どのようにしようか、等と心配することはないという
生死は起こるように起こるので心配はいらないという
行為は起こり、出来事は起こるように起こり、その出来事に対する我々の反応も起こるように必ず起こる
話すことも、話さないことも、そして話したことに対する反応も起こるように起こる
欲望や願いや考えや計画は起こるように起こりその結果も起こるように起こる
起こる事も、起こったことに対しての反応も起こるように起こるからである
だから何も思い煩うことはないというのである