普遍的霊魂



統覚機能(個別的霊魂の機能)が「私という観念」の主体であるとシャンカラは言う


これはどういうことかというと、それは思うに

私という根本的な自己意識(根本無明)とは個別的霊魂から起こっているというのだという

肉体脳や諸体からの思考や行為や欲望などの知覚を統覚しているのが個別的霊魂であり

その個別的霊魂から自我の根本は出現しているということだろう

だから、この分離している私・自己意識・自我という「私という観念」とは個別的霊魂から起

きている、放射されていると言うのだ

日常での私たちがいつも意識しているこの意識とはこの「私という観念」であるということ

もっとわかりやすく表現すれば、この私とは個別的霊魂から投影されている「私という観念」そのものなのだ・・ということだ

そしてこの「私という観念」から諸々の競争心、自尊心、利己心、嫉妬心、怒り、妬み、悲しみ、暴力

恐怖心などが次々と起こってくる、これは脳の記憶などよりさらに根源的な自我の反応のことである

それらの「私という観念の心」とまったく同一化してしまっているのが個別的霊魂の表層なのではないか?


ではこの個別的霊魂とは一体何だろうか?

そのことを単なる記憶であり、個別的霊魂から投影されている私という観念である私・思考が

それを知る事は不可能であろう、思考が思考の源泉を知ることができないのと同じである

それが知性の限界であると思える


これに対して知性をはるかに超えている意識から語られているのがクリシュナムルティーである

クリシュナムルティーのようにその個別的霊魂の全体である普遍的霊魂の根源からの

即ち「普遍意識・空」からの意識が直接に彼の肉体の頭脳を通じて人類に対して語りかけ

ておられるこのような恩寵の出現は非常に稀である


私達である「私という自己意識」とはこの個別的霊魂から投影されている「私という観念」だとしても、

ではこの個別的霊魂とは一体この現在意識の中では何に該当しているのだろうか?


それは、知覚や記憶や認識を統覚している機能であると教えられている



それは丁度、肉体に於いては各細胞が全体の肉体を構成しているように、この個別的霊魂とは

普遍的霊魂を構成しているものなのであろう、私たちは全体の一部なのだ

何兆という細胞が一糸乱れずに機能して一つの人体を機能させているように、個別的霊魂はそれぞれの

肉体や諸体に一時的に宿ってもそれは、全体の普遍的霊の一部として機能していることだろう

私達の肉体に宿っている個別的霊魂とは普遍的霊を構成している一部なのであるからだ

この私達の現在意識とはこの普遍的霊魂の個別的霊魂から放射されている「私という観念」なのだということ



私達である「私という観念の自己意識」は、この普遍的霊魂の一部である個別的霊魂から投影されている

個別的霊魂の奥から思考や感情や出来事が投影されているのに、同じく個別的霊魂から投影されている

私という観念である私は、肉体や諸体と同一化したので、その肉体や諸体に起こる行為や

思考や出来事のことを、行為は自分の行為であり、思考は自分の思考であり、出来事は自分が起こしている

出来事だと思い込んでいるのだ・・・ということであろうか


このところが非常に複雑で難しい、というのも根本無明は個別的霊魂から投影されているからである



元に戻ると、このように現在意識とは複合し、重層しているので、自分の意識内部の中で

①どれが私という観念であり、

②どれが起こっている思考や感情や記憶の反応や欲望であり、

③どれがこれらの心と一体化してしまっている個別的霊魂の意識なのか

を見極める必要がある


ではこのすべてはどこから生じているのであろうか?

この全ての全ては「空」から起こっているのであろう

で、ここで使われているその空という「言葉」とは、この限定された思考からの概念であり言葉であるけれども

その空側からの意識は、ごく稀であっても人類に届けられているのである、それは細い糸のように個別的霊魂の

内奥からの現在意識にも内奥から訪れることがあるからである


それがクリシュナムルティー達の言葉に他ならない


「根源の空の意識」が彼の脳を通じて人類の脳にも分かるように、あのような簡易な表現の言葉として人類に届いている

その「根源の空の意識」は人類側においては肯定的には認識出来ないので、否定的な言葉として私達にメッセージ

が送られている

有名なクリシュナムルティーの「心無く見なさい」とは、「心である自己」の終焉ということを前提にしている

したがって、その「心無く見なさい」とは、(肉体ではない)自己の死の後に誕生した「見る」ことの出来る目のことである

それは個別的霊魂の内奥の目のことであると思われる

見ることの可能な目の出現とは再誕を条件とし、再誕とは、自我・自己の死を通じてのみ起こるからであると思われるからだ



それは最大の否定を通じてのみ、最高の実相が顕現してくることを伝えている

(キリストの「あなたは生まれ変わらなければ見ることができない」と同じである)

虚偽を虚偽と見ることは真理の働きであり、その虚偽の正見の中かlら真理の顕現への道が生まれるのではないか

それがクリシュナムルティーの「思考なく見なさい」「心なく見なさい」「私なく見なさい」「あるがままを

あるがままに見なさい」につながっていくように思われる