観念がないとき


今日は「あるスーフィーの教え」から抜粋してみた

私は紹介しているだけでして、私・久保栄治はここでいう観念それ自体です


観念がないとき、私はいない、私がいないとき「自他に分離していない未知なる意識」がある

観念がないとき、思考はない、思考がないとき、思考である私はいない、そこに「見ること」がある

観念がないとき、「私の肉体」はない、「私の肉体」がないとき「聖なる宮」という誰のものでもない神秘がある

観念がないとき、過去もなく未来もない、今だけが在り、その今はいかなる時にもあり、すべては今にある

観念がないとき、自他の分離がない、自他の分離がないとき、そこには時空を超えている愛だけがある

観念がないとき、行為はない、行為がないとき無為があり、行動を超えた真の行為がある

観念がないとき、時間はない、時間がないときそこには未来や過去はなく今だけが在る

観念がないとき、努力はない、努力がないときそこにあるがままがある

観念がないとき、善悪がない、善悪がないとき、そこには善悪を超えた至善だけがある

観念がないとき、起こる事や出来事がない、起こる事や出来事がないとき、「ずべてはよし」だけがある

観念がないとき、記憶がない、記憶がないとき時間はなく、そこには全知だけがある

観念がないとき、選択や自由意志はない、選択や自由意志がないとき、そこには真の自由がある

観念がないとき、心がない、心がないとき、意識があり未知なる愛がそこにある

観念がないとき、現象はない、現象がないとき実相であるあるがままが在る

観念がないとき、観察している私がいない、観察している私がいないとき、そこには全てなる非分離がある

観念がないとき、なること、至ることはない、そこには實在が、初めからあった實在が現前している

観念がないとき、分離や区別がない、分離や区別がないとき、分離していないあるがままがある

観念がないとき、五つのコーシャはない、五つのコーシャがないときすべての人はわがうちにある

観念がないとき、知識や情報がない、知識や情報という記憶がないとき、そこには意識がある

観念がないとき、カルマがない、カルマがないので宿命や運命はない、わたしがいないからである

観念がないとき、私・自我である恐怖がない、恐怖がないとき、至福だけがある

観念がないとき、神聖なる「死」が起こり、自我を終焉させ、「I AM THAT」が誕生する

観念がないとき、個人はいない、個人がいないとき、全世界であるすべての人は「分離していない意識」である

観念がないとき、脳の条件付けは解除されている、脳の条件付けがないとき諸体は脱皮している

観念がないとき、あるがままがある

観念がないとき、地球人類と地球は現象的に見て新たなるステージに突入する



世の中にはアドヴァイタの本を読んで

「私は行為していない」と「観念の記憶に過ぎない”私”」が、そのように思い込んでしまっているのを散見するけれども

観念がないときにはじめて、「私は行為していない」と実感し理解することが出来るのであってそれ以前ではない

何故なら「観念であり、観念の記憶の反応」である私達がそれをさも理解したように言うことは自己欺瞞であり、

嘘をついていることになるからだ、観念とは、それ自体が分離という恐怖を背骨にした自我意識であるからだ

観念がある限りは「私」が思考している、「私」が行為しているとの分離・区別の実体感覚が生ぜざるを得ない

本当は観念が「自分の肉体」だ「自分の諸体だ」と思い込んでいる、この肉体や諸体とは、私のものでも

ないし、私でもない、またこの頭脳で発生している感覚や知覚も、記憶も、私である私という観念のものではない

それらの肉体の頭脳や諸体を経て受信され、知覚、認識される感情や思考や行動や選択や自由意志とは

起こっている事であり、起こっていることと自己同一化してしまっている私という観念のことではない


肉体や諸体と同一化した私という観念とは、畢竟、その生起している思考や感情の記憶であり、その記憶の集合体

なのではないか、私は他者と異なっていると思っているその「観念の私」とは地球規模の記憶体なのではないか

それは個別の独自の孤立存在ではない、(自分の目の前の他者とは実は自分自身である)その私という観念は

個別の肉体に入り、肉体と同一化することによって、自分はこの特定の名前のある肉体や諸体であり、私が

行為して、思考している、「私は他と分離している」という錯覚をその「私という観念」がしてしまっているのではないか


条件付けられている脳に縛りつけられた私とは記憶であり、マインドであり、観察者であり、見る者なのではないか?

その観察者・見る者が観察される対象とは自分ではなく、自分は対象とは分離していると思っているのではないか?

アドヴァイタの方々が言うように

「私という観念」である観察者とは観察されるものであり、見る者は見られるものであるのではないか?

対象のある観察者、見る者とは意識ではなく心に過ぎないと言われている

心が、マインドが、観念が無明マーヤであるからだろうか


けれども観念には観念を消滅させることはできない、観念の消滅は意識によって起こるからである

というのも意識(空)が観念を支えているからであり、意識(空)がなければ観念は存在することができない

と思われるからだ、「色は即空なのだ」と


この私自身とは地球で人類同一の私という観念そのものであり、起こっている思考や行為や肉体や諸体と

同一化しているものであり「私は身体だと」思っている、その記憶であり、その記憶の反応であるものだ

私達である私という観念とは地球単位の進化を続けるマインドなのではなかろうか


この観念が「私はこの身体だ」、「自分が行為している」、「自分が選択し、決定し、出来事を起こし、思考

している」と実感しているにもかかわらず、ラマナ・マハリシなどの本を読んで「私は行為していない」「すべては

起こっている」」すべてはあるがままだ」などとその観念の記憶が自己欺瞞の中で虚言するわけだ、実感している

ことは全くその逆なのに、その観念である私は、自分に嘘をついていることにすら気がつかないのだ


「私」の自由意志や、「私」の選択や、「私」の判断や、「私」の肉体、「自分」の考えや、「自分」の行為という実感

がある限りは、そこには解放もなく、自由もなく、観念だけがある、いまだ自我がそこに残っているからだ

そしてその観念とは全ての人類の共通の心であり、その記憶であり、そしてこの人類の行為とは「私という観念」の

条件付けられた反応に他ならない、そこには自由がないのだ、その特徴は自己の利益、欲望の充足を求めることだ


私達は肉体でも諸体でもない、またこの頭脳が受信し発信する思考や感情や行為や選択や出来事でもない

私達は私という観念であり、その記憶であり、この惑星地球で進化し続けている一つのマインドなのである

それはシャンカラによれば統覚機能(永遠のパーソナリティー・個別的霊魂?)から投影されている心・私という観念なのだと


この私とあなたの分離を生み出している観念・心とは、誰のものでもなく、ネットワークを組んでいて地球で進化している

マインドのことであり、それは源泉によって創造された過去であるものに他ならない

そのマインドとは見る者であり、実際にはその見る者とは見られるものと異ならないのに、その見る者は見られるものと

異なっていると思っているが、本当は見る者と見られるものは同じであると言われる、それらは共にマインドなのではないか?




・・・と考えるのだが、あなたはどう思うだろうか?