ありがとうございます



私達ははたして本当に感謝しているのだろうか

幸福だけではなくて不幸にも感謝しているだろうか

私達の感謝、その感謝とは実は「自我の商取引」による、「儲かった」「利益になった」という

だけの濁っている感情なのであろう・・その感謝とは感謝ではなくて商売上の儲かった

という上っ面の言葉なのではないか・・ほんとうはそこには全く感謝は存在していない


感謝について、どの私が感謝しているのかによってその感謝の透明度が異なってくる

何かを私にしてくれたので感謝している・・という感謝とは、未発達な自我による反応である

それは濁っている感謝であり、それは自我による自己中心的な「ありがとうございます」で

あって、そのありがとうは見返りがなければ、無関心や怒りへとすぐ一転し豹変してしまう

私達の通常のありがとうございますとは、この感謝のことであり、それは実際には商取引で

あって、愛のかけらもそこにはないといえる、それは感謝とはいえない

これは神への感謝も同じであり、神への生かされていることへの感謝であっても、その感謝の

底では自我が自分の取り分をしっかりと計算しているのであり、それは神に対する帰依でも

信仰でもない、その感謝とは自我による濁った感謝であって、実際には感謝とは言えない

自我という「条件付けられている記憶」の反応なのだ


感謝の質に関しては永遠のパーソナリティーとまで行かなくてもコーザル体や未形成のサイ

コノエティック体であっても、その諸体が透明化してくる度合いに応じて感謝は全く異なった

意味合いを帯びてくる



商売ではない本物に近い感謝が自然とわいてくる

何か良いことや利益になることを与えてくれた、若しくは、してくれたから感謝するのではない

良いことだけではなく良くないことに対しても心からの感謝が自然と起きてくる

災害や災難や不幸や失敗に対して、裏切りに対して、病気に対してすら感謝が起こってくる

生かされていることだけではなくて、死ぬことに対してすら心からの感謝が起こってくる

すべてのことに対して損得や善悪を問わず、自分に身の回りに起こっていることへの感謝である

この感謝のことを帰依若しくは全託ともいわれている


この感謝はより深く、透明度の高い感謝であり、

この感謝においては自分にとっての利益ではなくて、自分にとっての不利益に関しても心からの

感謝がわいてくる、幸福だけではなくて不幸に対しても感謝が起きてくるのである

この感謝が起こってきた段階に於いては、イライラや怒りや恐怖に対しても感謝がわいてくる

不安や心配や憎悪や欲望や衝動に対しても、心からの自然な感謝が沸き起こってくる

恐怖や嫉妬や高慢や無関心といった自我の深いところからの心に対しても同じように感謝が

わいてきて、自分自身に対しての「ありがとうございます」、恐怖に対しての、自我に対しての「あり

がとうございます」が自然に沸いてくる



私達は生かされているから感謝するのではなくて、理由などなく、だただた感謝をするのである

病気に対して、嫌な出来事に対して、敵に対して、不幸に対して、そして自分である自我に対して

この感謝するのは商取引からではなくて、心の奥から自然と沸き起こってくるものである


それがより透明になっていく自我体(ヴィジュニヤーナマヤ・コーシャ)やサイコノエティック体の

証なのではないだろうか

コーザル体や個別的霊魂である永遠のパーソナリティーそして、更に内奥の霊魂と言われる

真の私のことに関しては言葉や心や思考によっては接近できないことであり

知覚や認識や経験や体験と言った記憶の領域には属していないので思考したり触れることは

出来ないが、より透明な感謝がより透明な諸体の形成には欠かせないことは明白と言える

心からの無私の感謝・「ありがとうございます」がそのキーポイントなのではないだろうか