成長の道
私達とは成長している過程を歩んでいる自己意識であるといえる
肉体や肉体に繋がっているアストラル体やメンタル体ではない
決して固定的に「善悪・高低」などで決めつけられるようなものではない
私達とは単純に私は自我であるとか、真の私であるとか決めつけられるような自己ではない、
私達とは成長し続ける自己意識であり、この成長のプロセスを歩んでいる自己意識なのである
私達は内奥の真の私に向かって成長している自己意識であり、現段階の「私は誰か」との
質問には「私とはその段階の自己意識です」としか答えられないのだと思われる
本能的な自己意識から、徐々にいろんな仮面を纏いながら自己中心的な自己意識を通過して、
無意識の集合的自己意識を経て、自己意識の終焉と再生という、洗礼や磔などと呼ばれる課程を経て
意識的自己意識(ここでの意識とは思考のことではない)、そして超意識的自己意識へと成長していく
その過程が私達であり、私とは、私という成長していく自己意識を指している
私達とは思考体や感情体ではないのであるが、私達の状態とはこの思考体や感情体の状態によって
より鮮明に判明される
思考体や感情体が全く未形成で本来の高次感情体や高次思考体と繋がっていない状態が
平均的な私達の段階であると言われている
この未発達なアストラル体やメンタル体を持つ平均的な私達がラマナ・マハリシ達の本を読んで
「私は行為していない」「私は真我である」「私は思考ではなく意識である」と思い込み確信しても
その信じ込んでいる当の私のアストラル体やメンタル体が正しく形成されておらず、高次の
諸体へと変貌・脱皮していない限りにおいて、その確信とは自己欺瞞であると言える
現在のパーソナリティーのアストラル体やメンタル体が再形成されて、本来の高次アストラル体や
高次メンタル体と繋がった状態の時に、初めて私達である現在のパーソナリティーは思考や感情を
使えるのであり
それまでの私達現在のパーソナリティーは、思考や感情や欲望やワサナの奴隷であり、起こって
いる思考や感情や行為に振り回され、それに従属しており、それを使用している主体ではない
従って私達が奴隷である以上は私達が作り出す想念形態はすべて下向きであり、正しいものではない
このように私達は数知れぬ輪廻を重ねて成長を続け脱皮し、終焉と再誕を繰り返していくのであろう
私達は既に存在している永遠のパーソナリティーと繋がることによって現在のパーソナリティーが永遠の
パーソナリティーとなることだろう
さらに永遠のパーソナリティーは思考や感情を超越している個別的霊魂と繋がりその霊魂が私達の意識
となることだろう、そして私達の現在のパーソナリティーとは魂の自己意識と一つになることだろう
この段階であるとき「わたしは誰か」の問いに、「私は肉体ではない」「私はマインドではない」「私は行為し
ていない」と言えるのであり、それ以前の、未だアストラル体やメンタル体さえもが未形成の現在のパーソ
ナリティーがラマナ・マハリシや聖人達になりきってその様に言うのは滑稽とも言える
しかも、その更に個別的霊魂がその内奥である真我と一体化することが起こると言われている
そのときこそ「わたしは行為していない、私は存在している」といえるのであり、成長の未だ始まりの段階の
本能的自己意識や、自己中心的な自己意識の現在のパーソナリティーが「私は観照している」などと
賢者達になりきって、同じ事を思ったり、言ったりするのは自己欺瞞であり詐欺に他ならない
この繋がると言うことは、より本質の私と同化すると言うことであり、吸収されると言うこと、脱皮すると言うこと
若しくは「私は死ぬ」(肉体ではない)と言うこと、死んで再誕生すると言うこと
自己意識が拡大されること、意識が拡大して、「気づき」の状態となることでもある
このことは、これまでの段階の自己意識の終焉、若しくは「今までの私」の死、磔、洗礼、若しくは再誕生、自己
実現とも表現されるけれども、それらは今までの自己の死を通じて再誕生していくプロセスを示している
これは、この現在のパーソナリティーが成長していく過程の現象を指している
私達現在のパーソナリティーという自己とは成長していく過程の意識のプロセスであり、その自己意識なのだ
決してある段階に固定している自己意識ではない、このプロセスは何万何十万という輪廻を重ねて成長し
ていくことだろうが、それは今までの古い自己が解体分解されより本質の自己へと一体化し吸収されていく
成長過程に他ならない
従って私達の現段階の現在のパーソナリティーにとっては、ラマナ・マハリシ達が指し示す真の私とは、
蓋然的可能性の自己であり、現段階の私の事ではない
それは誰もが到達する真我であるけれども、「私は真の私である」とその様に現段階の現在のパーソナリティー
が思い込むことは自己欺瞞の泥沼に入り込むことである
この自己欺瞞である限り、思考や感情や行為と同一化している限りは、成長は微々たるものとなってしまう
私という現在のパーソナリティーとは成長する可能性を持つ自己意識であり、起こっている思考や衝動や
行為や感情ではない、また私達である現在のパーソナリティーとは思考体や感情体の状態によって示さ
れるが、その思考体や感情体が私達自身なのではない、私達とは蓋然的可能性を持つ自己意識なのである
この思考や行為や感情と自己同一化しないと言うことこそが思考体と感情体と自己の浄化に繋がっていく
のであると思われる(思考と感情と行為は肉体と同じように起こっている)
このことは通常の人生で私達が造り続けている「エレメンタル」の質が変わり始めるということでもあるのだ