スーフィー詩人の言葉
あるスーフィーの詩人の言葉を紹介したい
以下は常識では考えられない、荒唐無稽のように見えるだろうし
笑止千万の言葉のように聞こえることだろうが・・ここに敢えて紹介した次第である
「神だけが存在している
神以外には何も存在していない
すべては神であり、神自身である
~と、それを聴いて
否、そうではない、・・と、その様に思っているのは思考であり
その思考も神のものであり、神である」
「見ているものも、見られているものも、その目も神である
私も、あなたも神である
神だけが存在しており、神以外には何も存在していない」
「分離している私も、私という錯覚も神であり、神のものだ
神以外には何も存在していない」
・・・と
・・・この詩人の言葉には、余りにも現実の感覚とは相違しているので困惑させられるけれど
真実の響きがあると思われるので、躊躇しながらも思い切ってここに紹介してみた
これは、ある意味では最新の物理学の結論と通じていると思う
眼球や神経や内蔵や筋肉とは私が作ったものではなく、私のものでもなく、神のものであるように
生命も、息をして心臓が動くことも私が作ったのではなく、私のものではなく、神のものであるように
この視覚や聴覚と言った五感も私が作ったのではなく、私のものでもなく、神のものであるように
この知覚や認識や記憶も私が作ったのではなく、私のものでもなく、神のものであるように
この私、個人人格、肉体諸体も私が作ったのではなく、私のものではなく、神のものであるように
この行為も出来事も私が起こしているのではなくて、私自身も含めて起こっていることであり、神のものであるように
このカルマ、ワーサナ、サムスカーラも私が作ったのではなく、私のものではなく、神のものであるように
この誕生も死亡も私の選択や自由意志も”起こっていること”であり、神のものであるように
意識を司る脳も、肉体以外の諸体も私が創ったのではなくて神が作った作品、神のものであるように
光も闇も、善も悪も、苦しみも悲しみも、希望も絶望も、良きことも良くないことも私が作ったのではなくて
神が作ったもの、神ご自身である
そして
すべての私自身も、この意識も、私が作ったのではなく、神の創作であり、神のものである
私の心もあなたの心も、心とは私が作ったのではなくて神の創作であり神のものである
全ては神である
全ては神の中に在り、神ではないものは何もなく、神だけがある
生死も善悪も神も天使も悪魔も全ては神の中に在り、神のものであり、神ご自身である
そしてそれを聞いて
何を言っているのか!それは間違っている!現実のテロと戦争と悲惨の世界、自他に分離している現状を
無視して何という戯言を喋っているのか!!・・というこの思考も私のものではなく神のものである
バラバラに、分離して見えている、自他の分離というこの根本無明も神のものであり神であるからだ
自己も他己も神であり、意識も無意識も神のものであり、神以外には何ものも存在していない
敵も味方も神であり、欺す者も欺される者も、殺す者も殺される者も神であり、私もあなたも神に他ならない
現象は実は実相であり、実相以外には現象はない
あらゆる次元、あらゆる宇宙は神の中に在り、神ご自身である
下位次元は上位次元が支えており、全ての次元を神が支えている、神ご自身である
自分は神であるとそう錯覚している神々も神のものであり、神なのである・・・
自分は自分だ、自分が生きており、自分が行為しており、自分の人格であり、自分の個人だ、私は私だ
自分の人生だ、自分の肉体であり、自分のサイコノエティック体であり、自分の霊魂だと
そう実感している私・地球を覆い被さっている私という観念とは神のものであり神なのである
実は、神以外には何も存在していない
全ては神である
現象は実相である
と、そのように
スーフィーの詩人は静かに話しているのではないか
※ここでの神とは、人類にとっては、単なる概念であり、無意味な言葉に過ぎないが
これを書いた詩人にとっては実際の現実であったと思われる
神のことをこちら側の思考で記述することは不可能であり、心では想像も推測も出来ない
信仰も信念も体験も知覚も接近することは出来ない、それを知覚している主体が残っているからである
無理して「空」とか「あるがまま」「無限」「超越意識」「未知なるもの」とか述べても
意味はなく、人類にはせいぜい神々のことを誤って神だと思ってしまうのが落ちであろう
薬物の使用や脳の改変でそれを知覚したとしても、知覚している主体が残っている限り
その知覚や体験は心の範囲内であり、脳・マインドのトリックに過ぎない
それにもかかわらず、その大悲、大慈、大愛のことを神と言わざるを得ないのは
神という言葉しかないと言うこともさることながら、この思考である私達も無意識的に感じているからであろう
それの真実の知覚が在るときは、その時には知る人も知る対象も時間も空間も存在していないからである
その時には、ただただその絶対なるものだけが在ることだろう