自我との出会い
平凡な通常の仕事や人生の中で自分自身である自我に出会うことは滅多にない
仮面(人格)が仮面(人格)と接しているだけで、自身の内部に向かおうとはしない
からだ、
成功や実現を求めている限り、「何故、成功や実現を求めているのか」?「その
求めている者とは誰なのであるのか」を知ろうとはしない
記憶の条件付けの反応、諸体機能からの反応はあるが、自分自身・自我が
出て来て意識されるのは、主に「自分の目の前に現れている他者」として
であり、その自分自身とは他者との関係性を通じて認識若しくは知覚される
自分の目の前の他者が自分自身・自我の姿なのであるにもかかわらず
それを自我は「あいつは嫌なやつで、どうしようもない」などと話し出してしまう
通常、私達が認識する他者とは自分の他者に持っているイメージであって、あるが
ままの他者ではない、自分のイメージ(他者という)に対して関わっているのであり
本当の他者との関係は樹立されていない、これが世間でいう人間関係のことである
本当の他者との関係は本当の自己にあるのであり、それは人類の現段階では推
測すらできない、自己ではないものを自己としてしている限り、真の他者(一即多)
(真我)は認識できない
さて本日はその自我に関してではなくて、その認識し認識される自我・自己の
奥底にある私という観念、観察者について思索してみた
他者という関係性を通じて暴露される私自身のその更に、
自我の奥底に潜んでいる観察者についてである
クリシュナムルティーはどんな幼い子どもに対しても語りかける
「観察者なしに見なさい」「思考や私や心なしに見なさい」と
では、そのクリシュナムルティーの「見る」と言うことはどういうことなのかといえば
通常の人類の見ていることは見ていることではなくて、見ていないことになる
そこでクリシュナムルティーは更に私達に分かりやすく言う
「観察者がいないときにのみあるがままを見ることが出来ます」と
ではクリシュナムルティーのいう観察者とは何なのか?
観察者とはこの平凡な人生の中で、時々意識される自我・自分自身や「他者として知覚
される自己・自我」のことなのであろうか?
観察者とはこの自我のことではなくて、自我を観察して「これが私の真の姿だったのだ」と自我を
非難している「通常知覚されている自我の更の奥に底流としてある私・根本自我」の事であろう
この観察者という自我の底流の私にお目にかかったことはないが、ラマナ・マハリシなどによれば
これが各個人の自我の奥底にある「私という観念」、即ち、自我の根本の私、である「分離意識」
の事、「マインド」「心」のことらしい。仏教で言う「根本無明」のことである
残念ながら、私はこの自我の奥底の「私という観念」「分離意識」「観察者」を体験していない
ここでこの久保栄治が言っている私とは意識及び無意識の場・座としての私、スクリーンとして
鏡としての、現在では知覚・認識されていない個別的霊魂の鏡のこと、私という観念や霊的諸体
に覆われている鏡・「未知なる私」のことである、意識や知覚、認識を成立させている鏡のことである
さて本題に戻ると
クリシュナムルティーはこの自我の奥底にある、「私という観念」のことをさして観察者と言っており
この観察者がいる限りは見ることはできない、あるがままを見ることは出来ないと言っている
どんな幼い子どもにも「あるがままをあるがままに見なさい」と語っていることからして
彼は肉体の脳や諸体の脳の意識に語っているのではなくて、その幼い子どもに宿っている個別的
霊魂に対して語っていたのだと言うことが分かる
個別的霊魂を覆っているこの私という観念(観察者)がある限りはあるがままを見ていないのである
では、この私達である私という観念が見ている内部と外部とは何であろうか?このあるがままではない
内部と外部とは何だろうか?この通常の人生で知覚し、知覚されているこの世界こそがあるがままを
覆い被っている「私という観念」の世界であり、それは私という観念がそれ自身を見る者と見られるものと
に分離して見ているのである・・ということであるのだろうか?
それはあるがままを覆っている私という観念(心)が私という観念自身(心)を見ているのではないか
そのことをクリシュナムルティーは個別的霊魂である私達に対して語っている
「見る者は見られるものです」
「暴力と暴力の観察者は分かれてはおりません、それは一つなのです」
「暴力を見ているものは暴力であり、恐怖を見ているものは恐怖なのです」というのである
この言葉は頭脳からの言葉でもなく、
自我からの言葉でもなく、
自我の底流である「自我の観察者」という私という観念からの言葉でもなく
その観察者と観察されるものとを同じと看破している観照者からの言葉なのである
個別的霊魂の更に奥にある霊の言葉がこのクリシュナムルティーのことばであり
それはこの「私という観念」である心の次元、現象界に射し込んでいる一条の光なのである
彼は優しく語りかける「見るものは見られるものです」と、その言葉「見るものは見られるも
のである」とは究極の実在が発している言葉であり、個別的霊魂の奥底の実在からの
言葉であるといえようか
この次元から「私という観念の世界」に語りかけられている言葉がクリシュナムルティーのことばであり
平凡な人生の中での情報や知識でそれに近づくことは全く愚行であり、彼のことを理解した等という
のは恐れを知らぬ学者達の傲慢以外の何物でもない
それが「「見るものは見られるものです」である
同じように
「行為者はいない行為があるだけだ」
「思考者はいない思考があるだけだ」などと言う言葉が発せられているのは個別的霊魂の奥底から
の次元の言葉であり、それを肉体脳の情報処理という知覚認識で理解することは全く不可能である
真理には知識や情報や頭脳では接近できないのだといえる、心や思考では近づけないのである