自己実現



おそらく本心では、自己実現を望んでいない者はいないことだろう

誰もが、生まれてきた以上は、解脱を願い、神聖なる至高の愛の実現

すなわち真我の実現を発願している、

それこそ輪廻している理由であり、目的なのではないか?



では自己実現しようと願い努力し、そのためにワークしている者とは誰か?

日々昼夜を問わず探求を続け、研鑽し、自己観察を行っている私とは誰か?

この意識である私とは誰か?


それは

自己実現していないものであることだろう


自己実現していたら自己実現しようとなどとはしないからである

それゆえに探し求め、努力しているものとは自己実現していないものである

そのものとは自己からの自由と解放を願っており、

そのような自己から自由になるためという目的と動機を持っているものである

そしてその手段と方法を常に模索し実践しているものである


それがこの私である


もし自己実現していたら自己実現しようとしたり、そのための方法を求めたり

実践したり、そのための導いてくれる覚者を求めて彷徨うことをするのだろうか

水を飲もうとするのは、のどが渇いているからであり、のどが渇いていないのなら

水を飲もうとはしないのと同じだ

愛しようとするものは愛ではない、愛は私は愛しているよ・・などとは言わない、

愛とは自らを愛などと意識していないからだ、私も無く対象がいないからだ

もしそこに愛があるなら愛している私は無く、愛される相手も無いことだろう

愛は知覚されず認識されない・・というのも愛とは主客の分離=心ではないからだ


自己実現即ち至るため、新たに生まれ変わるため、悟るため、未知なる

超越意識を実現し、そこに至るために全託し、観照しようとし努力している者とは、

観照者でもなく、至ったものでもなく、悟った新たなるものでもない、それは

また生まれ替わってくるもの、輪廻してくるものである


それはよくご存じのこの私、思考、心、抜け目なく観察している観察者、行為者

すなわち自分が行為しているとの実感をしている行為者であろう

それこそがこの私である




それは、常に自己を他と分離している実体として自己を意識している、

この意識が即ちこの私である


それゆえに、この自己と言う意識、即ち私は常に自と他を比較している

神と私を比較し、神と私を分離し、信仰を装って神のようになろうとしている

信仰の奥には神への憎悪があり、復讐があり、神に取って代わろうとする

支配欲・征服欲がある・・それが信仰者の内実ではないか


この意識である私は限定され、他と分離し、孤立していると実感している

これが私という思考であり、心であり・・それが人類で共通の私なのではないか

従って、それは悟ろう、自己実現しようと藻掻き、グルを求め、方法を模索し、

ワークを実行している


私とは即ち、思考者、観察者、行為者、知覚者、認識者、私・自己で

あり、来世にも生き続けて輪廻を続けている私のこと

私は自己、即ち自己とは自我なのだ



自己を他者とは異なる実体として知覚し

常に自分のことに関心がある自己(思考)

この自己(思考)が有る限りは分離があり自我がそこにいる、

分離がある限りは、他者は他者と知覚され、他者という対象が有る、

対象が有る限りは、自己という苦しみと悲しみと競争心と、愛の欠如

と、増上慢などという恐怖がある、

そして恐怖がある限りは、恐怖からの逃避があり、恐怖との同一化がある

恐怖からの逃避と同一化がある限りは葛藤と苦痛と暴力、は避けられない、

そして、このそれらそのものである私が続く限りは輪廻転生は避けられない

そして、その私の終焉を望んでいる者とは、その終焉すべき私なのだ