内部は外部、外部は内部


賢人の方々は、口を揃えて、私は世界、世界は私だというのだ、外部は
内部であり、内部と外部は一つだというのだ

何故だろうか

この言葉が指し示している真実とは同じであっても、それぞれの表現
が異なるため、私達は、その指し示されている真実を理解するのが難
しい・・というのも現実的には現在、マインド・心が働いており「世界とは
自分ではない」「対象は私ではない」と知覚し認識しているからだ


しかし、ここに人類に対して一条の光が差し込んでいる・・それが

黒住宗忠の「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を移してや見ん」

Kの「見る者は見られるものである」「観察者は観察されるものである」

アドヴァイタの方々の「世界は私であり、わたしは世界」「内部は外部で
あり外部は内部」「人の苦しみは私の苦しみ」「殺す者は殺される者」な
どなどである


これら表現は異なっていても、その境地若しくはその「目」(思考では
ない意識)は同じで、それらはアストラル視力ではなく観照者の内奥の
意識・目なのである
そこから見た真実とは、この未知なる意識から見ている「気づき」であ
り、同じなのである

その「目」とは、私達がこの現実とみている世界観や常識とは大きく異
なっており、内部と外部の分離分割、自他の分離分割、世界と自分との
分離という、主体と客体が乖離しているという人類共通の知覚や認識
とは大きく異なっている

賢者が指し示しているこれらの言葉から推測すると、他人と私の分離、
世界と私の分離、主体と客体の分離というこれらの認識とはマインドが
身体を自分だと思う込んでしまっていることから起こっている錯覚であ
ると言うことらしい


心・マインドが生命や霊魂と共に肉体に入り、脳と直結し、その肉体や諸
体を自分だと錯覚しているのではないだろうか

マインド・自我・私・思考とは以下のように間違って知覚し認識してしまっ
ている

一、自分の目の前に現れている、出来事やその他人とは自分という
  マインドの状態を如実に表していることに気がつかない、
  従ってその目の前の出来事や他人を判断し非難したり、「君は
  悪だ!敵だ!」などと言ったりする
一、外側にあるとみている世界とは実は、この肉体と一体化したマ
  インドが見ている肉体の脳の知覚に過ぎず、それは脳の条件付
  けが解除されていない段階状態であり、脳と結合したマインド
  は、脳の知覚と同じように認識するのだが、それは現実(実相)
  ではない
一、実際にはわたしは世界であり、世界とはわたしであり、わたしは
  あなたであり、あなたとはわたしなのに、それを肉体を自分だ
  と思ってしまった心は私と他人は異なっており、世界は外部で、
  自分は内部だと思い込んでいる、自分と世界は一つではない 
 と信じ、そのように知覚してしまっている


ここに、これらマインドではない高次の意識の状態が顕現された賢人
という超意識からの言葉がある、それこそ黒住宗忠の「立ち向かう人
の心は鏡なり、己が姿を映してや見ん」である


この言葉はただ単に、利己的な自己改善や自己改革の言葉ではなく、
もっと深遠な真実からの言葉であり、私達であるマインドに対して語り
かけている貴重な言葉なのである


日々の生活という、この錯覚状態の人生の中で、私達の目の前に現れ、
私達の知覚では他人と知覚される、その他人の心や、起こっている出
来事とは実は自分自身の姿のことであり、その目の前の相手や起こっ
ている出来事とはこの私、自我のありのままの姿を如実に映し出して
いる、外部とはマインドが脳を通じて投影しているのではないか

この映し出されている、私・自我というマインドは、その目の前に映し
出されている他人(”実は私”)や起こっている行為や起きている出来事
を非難してしまう、
しかし、この私の目の前のあなたという敵であるあなた
即ち、私を搾取し、私を欺し、殺そうとしている敵である他人、悪魔と
は、私自身なのであるということに心・自我は気がつかない・・・

これらの真実とは大変に受け入れがたいことではあるけれども、しか
しこれが真実なのではないだろうか?

私が非難している相手とは実は私自身のことなのである
私の環境、私を取り巻く出来事とは、実は私達自身のことなのである

私自我にとって、自己自身である自我とは相手の心という「関係性」を
通じ、また起こっている出来事や行為を通じてだけ知覚し認識されるの
である・・このように黒住直忠は教えておられるのである

私・自我とは関係性という鏡を通じてのみ暴露され知覚される・・と


・・というのもこの自我が行う自己観察や自己認識とは、自己認識では
ないからだ。それは思考の運動に過ぎないからだ。観照ではない。

実は、思考という自我には自己を直視することは出来ず、自我の実行
する自己認識・自己観察とは自我が自分だと想像している思考の中身
であり、その思考の状態であり、思考が作動している状態に過ぎない、
従って、自我が自我を知覚することはできない、思考には思考自らを
「見る」ことはできないのである、真実の目がないからだ
思考が見ることが出来るものは、思考という膜それ自身のみであり
その思考が見ている認識や知覚は間違っている幻覚であるといえる

従ってこの「鏡」という関係性の重要性は計り知れないのである
けれども、この関係性の鏡とは非常に苦痛であり、この事によって暴露
される、その私自身の中身とは非常にプライドを傷つけることであろう
が、鏡に映し出されている相手の心とは、実は、自分自身なのである


そしてその相手の心に映し出されている私自身とは自我であり、その
自我とは人類共通の心であり、人類で同一の自我・思考なのだ
この私という自我は私のものではない、全自我は神のものである。と

そしてさらに、その思考、心、自我とは神の演技であり、神から起こって
きている質料なのであろうと推測される


空は色であり、色は空から生じているからだ



では元に戻り
黒住宗忠はその言葉を通じて一体何を私達に語りかけているのであろ
うか?

わたしという他人と異なる個人と思っている自我とは、実は人類であ
って、個人ではない。私は個人だと思っている地球単位の人類なのだ
それは人類という同一の心・マインドであり、地球で進化を続けている
意識なのではないか

その意識である心・マインドとは、肉体の脳と結びついた自我(心)のこ
とであり、この自分の状態とは、親しい人々との関係性を通じて、他人
の心として認識し知覚されているものであり、それは恐怖と暴力であ
り、悲しみと苦しみであり、自分の根源を知らない無知から成り立って
いるのであろう

それは利己的であり、愛の欠如であり、分離であり無知である・・・とそ
の賢者達の言葉とはこのように指し示しているのではないか


そして、それらの深遠なる「気づき」という理解(思考ではない意識)か
らやってきている言葉が覚者達の語る言葉であり、同じ事を異なる言葉
で表現されている



「見る者とは見られるものです」「観察者は観察されるものです」「外部
とは内部です」「内部は外部です」
「世界とわたしは一つです」「私は世界であり、世界は私」であり「世界に
起こっている全てのことはわたしに責任があります」・・と

これらは思考や心を超えている意識から人類に対して贈られている言
葉である


これらから類推できることは、この至高なる次元ないしは意識とは、現
在のこの惑星地球人類には到底及びつかないし、想像すら出来ない意
識「真実」なのである、

私達とは本当はひとつであり、世界は私達自身、私は世界なのだ、私と
は即人類なのであると、そして「見ているものは見られているものであ
る」というのだ、・・・・とこれらは未知なる真理を示している

この真実の知覚と認識を妨げているのがマインドであり心であり思考
であり、それが私なのであろう、それらは無知という根本無明なのだ


私達私という観念が自身の根源であるこの心にたどり着き、心の大元
に至ったとき、輪廻という旅は終わるという

これを道元は「身心脱落」「脱落身心」といったのである
この道元の境地では生死もなく、輪廻もなかったのであろう