諸体の透明化
(以下で述べている「理解」「気づき」とは通常の日常生活で使用される理解や気づきではなくて
いまだ人類には全くもって未知である高次の意識の一部の表現として使用していますので
ご了解下さい)
理解や気づきというような観照者(観察者ではない)の意識が受けとめられ顕在化するためには
受信器である肉体脳の状態が改善され
脳が条件付けから解放されていることが必須であると同時に
意識体である諸体の透明化(サイコノエティック体から高次ノエティック体への脱皮)
即ち思考体や感情体や記憶の浄化、再形成、整列
そして自我体の透明化が必須条件であり必要なことであるだろう
いくらこの久保栄治が頭で「気づき」を理解しようとしても、それは単に思考が廻っているだけであり
それは理解でもなく、知ることでもなく、単なる推測や概念上、知性上の構築物に過ぎないからである
従って情報や記憶や観念での理解とは理解ではなくて言葉だけの構築物に過ぎず中身がないのである
覚者達の言葉である「即身成仏」「悉有仏性」「自我即真我」「色即是空」「身心脱落」などを理解するには
概念での接近や、言葉や言語や情報によっては不可能であり、従ってそれは頭や観念では伝えられないし
表現できないし、いくら天才で頭が良くても理解できない、文字や言語では全く接近が出来ないのである
「自己」とは思考や観念そのものであり、それが働いている限りは真理には接近できないのである
いくらクリシュナムルティーや他の覚者達が「観察者は観察されるものである」と言ったことを覚えて
鸚鵡のようにその様に繰り返し唱えていても、それは訳の分からないお経の言葉を繰り返している
のと同じであって、決して理解には至ることはない、
理解には諸体の再形成・透明化及び整合・整列が必須であるからである
意識とはそれら複合している諸体自体のことであり、その諸体の状態がその意識状態・内容であるからだ
確かに、自己観察を通じて自我である観察者が確立し、そして観察者が観察者自身を観察しているとき
その自我という思考による観察とは必ず主体と客体に分離しており、観察者は観察される対象とに分離し、観察している
自己が観察されている自己以外に存在して自己観察しているかのような錯覚の認識状態の中にある
見ている私と見られている私がそこにはあり、この分離があり、観察者は観察されている自我は自己ではないと思い
その様に実感している
その主体と客体の分離こそが自我という思考の本性なのであろう
従ってそのような思考による誤った自己観察や自己の内省とは観察者という自我をますます強固にしていく
そして、覚者達や聖人の言葉を自我である自己にそのままの状態で当て嵌め、
「私は行為していない」「私は思考ではない」などと戯言を言い出し始める
これら
信念や信仰といった観念的、概念的な真理への接近とは全くもって接近ではなくて
それはますます真理から離れていくことでもあろう
いくらラーマクリシュナが「神が自我を使って生きておられるのです」「行為は神がしておられます」という言葉を、
聞いて、それを自己流に解釈し信じ込み、思考や観念でいろいろと構築し、思索して
観念的に「ああそうか自我は存在しておらず、それは神のリーラなのか」などと頭で思っていても
それは、単なる脳の記憶であり、記憶とは思考であり、思考による理解とは全くの誤解であって
腹の底からの理解ではない以上は、それはラーマクリシュナを理解していない
また覚者の「個人というような自己とは実は存在しておらず、地球を単位とする、巨大な意識体がこの宇宙で
進化を続けており、地球も同じであり、惑星単位の意識体が個人と言う錯覚をしながら成長しているのであって、
実は個人の進化、個人の覚醒、自己実現とは幻想です」等という言葉を本で読み記憶していても、
その理解とは未発達なサイコノエティック体の記憶の反応に過ぎず、決して理解でもなく、気づきでもない、
それは肝心のサイコノエティック体が成長しておらず、諸体が整列し透明化していないからである
理解とは肉体脳と感情体(サイキック体。幽体)、思考体(メンタル体、霊体)、そして転生を続ける自我体の透明化と整列
そして、その諸体と内部のコーザル体や個別的霊魂との直列化がもたらした結果であり
その直列化や整列即ち透明化によって誕生した意識が理解であって、それは伝達可能な言語や情報や思考ではない
従って真正なる理解の誕生によって、はじめて上記の覚者達の言葉は理解されるのであろう
肉体も感情体も思考体も自我体もコーザル体や個別的霊魂と同じく個人や私のものではなく、それを創造し
使用しておられる根源のものであって、結果である個人や私がそれらの諸体を整列させるわけではない
この結果である私達現在のパーソナリティーが出来うる唯一のことは、自己が存在していない事を
腹の底、骨の髄、心底から頭と心と精神で知ることであり
そのためには道筋として思考による自己観察が必須となる
自己観察により観察者が鮮明になり、観察者とは観察される自我であるとの実感が(言葉ではなく)訪れたとき
思考である自我が全く沈黙したとき、静寂が訪れ、その静寂の中に理解が起こるのかもしれない
そこには諸体の整列が起こり始め、大いなる叡智によって変革が訪れ、秩序が生まれるのかもしれない
しかしそのためには
自己と言う錯覚存在であるマーヤである私達にとっては、どうしてもその「わたしとは誰かという」変えざると問い
が必要であり
そのためには
まず始めに自己観察による自我である観察者(観照者ではない)の確立と成長が求められるので
はないだろうか